スタジアムへの命名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/29 19:38 UTC 版)
「ナイル・キニック」の記事における「スタジアムへの命名」の解説
1943年の彼の死後、アイオワスタジアムを彼の栄光を称えて改称しようとする動きがあった。けれども彼の父親は息子が40万7000人の第二次世界大戦で亡くなった1人に過ぎないとしてその案に賛成しなかった。彼の弟のベンも海軍パイロットになり、1944年8月に太平洋で戦死していた。大学は彼の意向を尊重した。 1970年代初め、アイオワ州の地元紙"Cedar Rapids Gazette"のスポーツ編集者であるガス・シュレーダーは自分の人気コラム上でスタジアムへの命名の世論が盛り上がることを狙った。これによりスタジアム改名への賛同は高まり、彼の父親も息子の名前をスタジアムに命名することに反対していた気持ちを和らげた。 1972年春、アイオワ大学の委員会はスタジアムの名前を大学唯一のハイズマン賞受賞者である彼の名前に改称することを決定した。その年9月23日開幕戦のオレゴン州立大学との試合前にセレモニーが実施されてアイオワスタジアムはキニック・スタジアムとなった。彼の父親もセレモニーに出席してうれしそうな様子を見せた。 父親は息子ととても親しかった。彼らは頻繁に手紙のやりとりを行い若いキニックに大きな影響を与えた。しかしながら常に控えめであり続け1939年のアイオワ大学の快進撃が話題になるとチームメートについて述べたてた。2人の息子を亡くしてから50年近く生き続けアイオワ大学のフットボール史上最高の栄誉を彼の息子が受けるのを見ることになった。 キニック・スタジアムはカレッジフットボールで唯一のハイズマン賞受賞者の名前をつけたスタジアムとなっている。2006年に改修が行われ開幕戦の前日である9月1日に14フィートの高さの彼の銅像もスタジアム正面にお目見えした。セレモニーではヘッドコーチの Kirk Ferentz のスピーチと共にキニックが搭乗した飛行機の複製による低空飛行も行われた。2007年には1939年のノートルダム大学戦で彼がタッチダウンをあげたシーンのレリーフがスタジアムの壁面に設けられた。
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