ジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:38 UTC 版)
「オルレアン包囲戦」の記事における「ジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着」の解説
数年の間、フランスを救済する武装した少女に関する漠然とした予言がフランス国内に広まっていた。これらの多くで、武装した少女が、ジャンヌの生誕地であるドンレミ=ラ=ピュセルのあるロレーヌ公国国境から現れるであろうと予言していた。結果として、包囲されていたオルレアンの市民に、ジャンヌが王太子に謁見した旅のことが伝わると、市民の期待と希望が高まった。 3月6日、ジャンヌはボードリクールに護衛されてシノンに到着し、懐疑的であったラ・トレモイユと面会した。9日、ついに彼女は王太子に謁見した(王太子が最終的に彼女の「(魔)力(または彼女の有用性)」を確信した遭遇は、この2、3日前であった)。それにも関わらず、王太子はジャンヌに最初にポワチエに行き、教会組織による検査を受けてくるように要求したが、聖職者により彼女は有害でなく、任務を安全にを引き受けることができると裁定が下ると、王太子は22日にようやく彼女の奉仕を受け入れることとなった。ジャンヌには板金甲冑、旗、小姓、使者が与えられた。 ジャンヌの最初の使命は、ブロワに集まっているジャン・ド・ブザック指揮官とジル・ド・レ指揮官に率いられた護送部隊に加わり、オルレアンに物資を運ぶことであった。ブロワで彼女は、イングランド軍の包囲戦の指揮官宛に、有名な書状を送り、その中で自身を「乙女(the Maiden / La Pucelle)」と呼び、神の名で「立ち去れ、さもなくば、私が立ち去らせる(Begone, or I will make you go)」と彼に要求した。 救援部隊は、400人-500人の軍人を伴って、4月27日あるいは28日に遂に宗教的な行列のようにブロワから去った。ジャンヌは北側から、イングランド軍と即座に戦うことを企図して、イングランド軍が集まっているBeauce地域を通って、オルレアンに接近することを主張した。しかし、指揮官たちはジャンヌに告げることなく、部隊が(ソローニュ地域を通る)南部を迂回するルートをとることを決定し、オルレアンから4km程東の町のシェシー(Chécy)で、ロワール川の南岸に到達した。オルレアンの指揮官であるデュノワが川を横切って、彼らに会いに来ようとした。 この裏切りに憤慨したジャンヌは、南岸のイングランドの砦に最も近いサン・ジャン・ル・ブラン砦に即座に攻撃をしかける命を下した。しかし他の部将の支持を受けていたデュノワはこれに抗議し、最終的に彼女を説得して、攻撃される前に、町が再補給を行うことを許させた。供給部隊はサン・ルー港の上陸場に接近し、北岸のイングランドのサン・ルー砦から川を横切った。フランスの散兵がサン・ルー砦のイングランドの守備隊を封じ込めている間に、オルレアンからの船隊が供給物とジャンヌおよび200人の軍隊を迎えるために上陸場に来た。 有名なジャンヌの奇跡の一つが、ここで起きた。船を上流へと流していた風が、突然反対向きに吹き始め、暗闇の中、彼らはオルレアンに順調に戻ることができた。4月29日の午後8:00頃、ジャンヌはオルレアンに入城し市民に大歓迎された。残りの部隊はデュノワに説得されブロワに戻った。
※この「ジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着」の解説は、「オルレアン包囲戦」の解説の一部です。
「ジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着」を含む「オルレアン包囲戦」の記事については、「オルレアン包囲戦」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着 を検索
- ジャンヌ・ダルクがオルレアンへ到着のページへのリンク