ジャンヌ・ダルクとの戦い
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「ジョン・オブ・ランカスター」の記事における「ジャンヌ・ダルクとの戦い」の解説
ベッドフォード公は丁寧に後方を固めることを好む人で、フランス西部でノルマンディーの南隣にあるメーヌ・アンジュー・トゥーレーヌの征服が戦略目標だったが、戦線の膠着状態が続く中、主戦派の第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムや第4代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートから突き上げられてフランス中部のオルレアン包囲作戦を決定した。面の支配ではなく、南下してオルレアンという点の支配で一気にシャルル7世がいるブールジュの王宮まで侵攻する計画である。また戦局を緊迫化させることで善良公をいやおうなしに対フランス戦争に引きずり込めるという思惑があった。 しかし、包囲戦が始まった直後の1428年11月にソールズベリー伯が戦死して第4代サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、第7代タルボット男爵(英語版)ジョン・タルボット(後の初代シュルーズベリー伯)、トーマス・スケールズらが指揮を引き継いだが戦闘は長期化、1429年5月にジャンヌ・ダルク率いるフランス軍にトゥーレル要塞を落とされ、包囲されていたオルレアンは解放された。作戦の失敗を知ったパリのベッドフォード公は、ジョン・ファストルフ率いる援軍をパリから送ってタルボットらが率いるオルレアン攻囲残党軍と合流させたが、彼らは6月にパテーの戦いで敗れて壊滅してしまった。 これによりフランス軍にランスへの道が開かれ、7月にはシャルル7世がジャンヌらを引き連れてランス大聖堂で戴冠式に臨んだ。8月にはジャンヌ率いるフランス軍がパリに接近してきた。ベッドフォード公はパリ市の壁や市民軍を強化し、忠誠確認などで市内の徹底した思想統制を図って防衛力を強化した。その結果、9月のパリ包囲戦でフランス軍を退けることに成功した。 1430年2月には善良公にイル=ド=フランス東部ブリとシャンパーニュへの統制権を認め、それを餌にしてブルゴーニュ派のコンピエーニュ包囲戦への参戦を取りつけた(善良公としてはイギリスと全面共同作戦を行う意思などなかったが、目下同盟者ベッドフォード公の顔を立てておく必要があったし、ブリとシャンパーニュを手に入れておけばシャルル7世との和解交渉の時に役に立つと考えていた)。 この作戦は1430年夏いっぱい続けられたが、イングランド軍とブルゴーニュ軍の敗北で終わった。しかしこの戦いの最中の5月23日にブルゴーニュ軍がジャンヌを捕虜にすることに成功した。コンピエーニュを管轄するボーヴェ司教(フランス語版)ピエール・コーションを通じてジャンヌの身柄を買い受け、コーションを裁判長とする宗教裁判に引き渡した。1431年1月から5月にかけて彼女の宗教裁判が行われたが、最終的には獄中で男装したことで戻り異端の罪を犯したとされて、5月29日に世俗裁判権(イングランド)に返還された。ベッドフォード公は重ねて世俗裁判を行わず、翌30日にジャンヌを火刑に処した。
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