ジャンヌ・ダルクとの戦いとは? わかりやすく解説

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ジャンヌ・ダルクとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:11 UTC 版)

ジョン・オブ・ランカスター」の記事における「ジャンヌ・ダルクとの戦い」の解説

ベッドフォード公丁寧に後方固めことを好む人で、フランス西部ノルマンディーの南隣にあるメーヌ・アンジュー・トゥーレーヌの征服戦略目標だったが、戦線の膠着状態が続く中、主戦派の第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムや第4代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートから突き上げられフランス中部オルレアン包囲作戦決定した。面の支配ではなく南下してオルレアンという点の支配一気シャルル7世がいるブールジュ王宮まで侵攻する計画である。また戦局緊迫化させることで善良公をいやおうなしに対フランス戦争に引きずり込めるという思惑があった。 しかし、包囲戦始まった直後1428年11月ソールズベリー伯戦死して4代サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、第7代タルボット男爵英語版ジョン・タルボット(後の初代シュルーズベリー伯)、トーマス・スケールズらが指揮引き継いだ戦闘長期化1429年5月ジャンヌ・ダルク率いフランス軍トゥーレル要塞落とされ包囲されていたオルレアン解放された。作戦の失敗知ったパリベッドフォード公は、ジョン・ファストルフ率い援軍パリから送ってタルボットらが率いオルレアン攻囲残党軍と合流させたが、彼らは6月パテーの戦い敗れて壊滅してしまった。 これによりフランス軍ランスへの道が開かれ7月にはシャルル7世ジャンヌらを引き連れてランス大聖堂戴冠式臨んだ8月にはジャンヌ率いフランス軍パリ接近してきた。ベッドフォード公パリ市の壁や市民軍強化し忠誠確認などで市内徹底した思想統制図って防衛力強化したその結果9月パリ包囲戦フランス軍退けることに成功した1430年2月には善良公にイル=ド=フランス東部ブリシャンパーニュへの統制認め、それを餌にしてブルゴーニュ派コンピエーニュ包囲戦への参戦取りつけた(善良公としてはイギリス全面共同作戦を行う意思などなかったが、目下同盟者ベッドフォード公顔を立てておく必要があったし、ブリシャンパーニュ手に入れておけばシャルル7世との和解交渉時に役に立つ考えていた)。 この作戦1430年いっぱい続けられたが、イングランド軍とブルゴーニュ軍の敗北終わった。しかしこの戦い最中5月23日ブルゴーニュ軍がジャンヌ捕虜にすることに成功したコンピエーニュ管轄するボーヴェ司教フランス語版ピエール・コーション通じてジャンヌ身柄買い受けコーション裁判長とする宗教裁判引き渡した1431年1月から5月にかけて彼女の宗教裁判が行われたが、最終的に獄中男装したことで戻り異端の罪を犯したとされて、5月29日世俗裁判権イングランド)に返還された。ベッドフォード公重ねて世俗裁判行わず、翌30日ジャンヌ火刑処した

※この「ジャンヌ・ダルクとの戦い」の解説は、「ジョン・オブ・ランカスター」の解説の一部です。
「ジャンヌ・ダルクとの戦い」を含む「ジョン・オブ・ランカスター」の記事については、「ジョン・オブ・ランカスター」の概要を参照ください。

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