シーバスの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/31 22:51 UTC 版)
「シーバス (バンクーバー)」の記事における「シーバスの歴史」の解説
1900年に初めてバンクーバー市とノースバンクーバー市を結ぶフェリー定期便の運航が開始された。その当時使用された船の名はノース・バンクーバーであった。3年後にバンクーバー・フェリーアンドパワーが設立され、定期便の運航を引き継ぎさらに、セント・ジョージというフェリーを就役させた。後にこれら2隻のフェリーはバンクーバーフェリーNo1およびNo2と改名された。1908年にはノースバンクーバー市がより円滑なフェリーの運用を目指して定期便の運航を引き継ぎ、その直後には3隻目の船となるバンクーバーフェリーNo3が就役した。フェリーNo2は1936年まで使用された後、バンクーバー島西岸に係留されキャンプ施設として使用されたが、火災によって焼失する。 1938年にはスタンレーパークとノースバンクーバー市を直接結ぶライオンズゲートブリッジが完成し、それによって乗客数が大きく減少することになるが、第二次世界大戦の勃発によりノースバンクーバー市で造船業が栄えると、シーバスへの需要が一段と高まった。これにより景気が回復したことで5隻目となるフェリーNo5が1941年に就役した。造船業従事者の入り江北岸への移動がより盛んになったため、アメリカのシアトルで建造されたクロスライン号も1942年5月に就役する。当時のフェリー船長ジェームズ・バーによると最忙期の1943年には一年間で700万人もの人々がバラード入り江をフェリーで渡ったという。 しかし終戦とともに利用者が減り、1950年代に入るとフェリーの経営に暗雲が漂い始めた。1948年にはフェリーNo3が退役し、1953年に転売される。旅客数が激減したことで採算の取れなくなったノースバンクーバーフェリーは1958年8月30日にフェリーNo4による入り江横断を最後に運航が停止された。フェリーNo4はその後転売されプリンス・ルパートと改名された他、フェリーNo5はノースバンクーバーのロンズデール埠頭に係留されSeven Seas Restaurantとして利用され、2002年まで存続した。それまで長期間にわたって係留されており、老朽化が激しくいつ沈んでもおかしくない状態であると考えられたため、もしも沈んだ場合誰が責任をとるのかということで長期間に渡る議論が交わされた末にノースバンクーバー市とカナダ連邦裁判所の命令により撤去処分された。フェリーNo4が乾ドックに引き上げられた時点では、船体には何の問題も無かったとされるがすでに破棄が決定されていたので、歴史的遺産であったにも関わらずそのまま解体された。 現在コーストマウンテンバスによって運航されているシーバスは1977年にかつてのフェリーと同じ航路、発着場を利用して再開されたものである。現在のシーバスはバラード入り江を無料で往来できる交通機関を建設する計画が提案されて(実際に無料化は実現しなかったが)計上された予算によって誕生した。
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