ショートコンタクト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 03:20 UTC 版)
1991年12月、ソビエト連邦の崩壊後、ウクライナは独立し、中華民国政府はウクライナやベラルーシという二つの元ソ連構成国を以て外交突破目標を作り上げた。中華人民共和国外交部は「最高速度を以て」ウクライナと外交問題を完成するよう要求し、于振起(中国語版)臨時代理大使や范先栄(中国語版)書記(後の中国の駐タジキスタン大使(中国語版))、趙向栄随員の三人をキエフに派遣し大使館を開館した。1992年1月4日、中華民国外交部蒋孝厳(中国語版)次官を代表にウクライナを訪問し科学技術や貿易について相談し、相互に事務所を設け、併せてウクライナ国防大臣一覧(英語: List of Ministers of Defense (Ukraine))やウクライナ基礎建設省(英語: Ministry of Infrastructure (Ukraine))、ウクライナ経済発展・貿易省(英語: Ministry of Economic Development and Trade (Ukraine))と面会した。1月14日、中国とウクライナは、「国交を樹立する公報」に署名した。但しウクライナが独立して間もなく経済が困難になる問題に直面し、一部のヴェルホーヴナ・ラーダ議員と経済界に中華民国と国交を樹立し援助を受けるべきだと主張する人がいた。 1992年4月7日、蒋孝厳は二度目のウクライナ訪問をし、併せて大量の医療用品を積んだ専用機に搭乗しキエフに到着した。中華人民共和国駐ウクライナ臨時代理大使于振起が知ると、直ちにウクライナ第一外務副大臣と会見することを約束し、ウクライナに「中国・ウクライナの国交を樹立する公報」の厳守を要求し、中華民国の官僚と公式の接触を行わないよう要求した。马卡列维奇则は声明を出し、これまで台湾からウクライナに代表処を設置する必要があるとは聞いたことがないと言った。夜の12時30分、ウクライナ国家テレビ局(中国語版)は台湾の専用機がキエフに到着したと報じ、併せて薬品を積み下ろす画面を報じ、暫くしてウクライナの官僚が現れた。8日午前、于振起は直ちに中国の留学生が飛行場で薬品を引き渡す儀式の段取りをした。一人の中国人留学生が現れウクライナ衛生省(英語: Ministry of Healthcare (Ukraine))が儀式に出席した。于振起は馬卡列維奇副大臣と会見することを約束し併せて厳しい交渉案を提出し、ウクライナ大統領レオニード・クラフチュクはその官僚を評し、併せて今後閣僚は誰も台湾との交渉に参加できない旨を承諾した。この後も親台湾派の議員は台湾との国交樹立を主張し、キエフ大学国際関係学部副学部長は反対を表明し、他に「ウクライナと台湾の国境樹立と他国がウクライナのクリミア半島独立を承認することと異ならない」という主張があった。この後、ウクライナ議会で台湾との国交樹立を提案する人はいなかった。
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