ショパン:生徒になりかける(1831年)
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「フリードリヒ・カルクブレンナー」の記事における「ショパン:生徒になりかける(1831年)」の解説
1831年の秋と冬の数週間の間、彼に熱狂したショパンは、真剣にカルクブレンナーの弟子になりたいと考えていた。しかしカルクブレンナーは、ショパンに自分の下で3年修行することを要求した。ショパンは自分が彼の下で学ぶべきかどうか熟考を重ね、それがショパンの故郷ポーランドとパリの間で行き交った書簡として残っている。 1831年11月27日、ワルシャワのユゼフ・エルスネル(ショパンのピアノの師)からパリのショパンへ:君の手紙で、君が言うように一番のピアニストのカルクブレンナーが、君をそんなに親切に受け入れてくれようとしていると知って、私は嬉しいよ。私は彼の父と1805年のパリで知り合ったのだが、その時まだほんのちびっ子だった息子は、既に第一級のヴィルトゥオーゾとして有名だったものだ。彼が君を彼の芸術の不思議の中に導いてくれることを了承してくれるのは実に喜ばしいのだが、それに3年もの時間を要求したと聞いたのは驚きだった。彼は君に初めて会って演奏を聴いて、君が彼の方法論に順応するのにそれだけの時間がかかると考えたのだろうか。それとも君が自分の音楽的才能をピアノだけに捧げたがっているとか、君が作曲をピアノ曲だけにとどめたがっているとでも思ったのだろうか。 1831年12月14日、パリのショパンからワルシャワのヨゼフ・エルスネルへ:3年もの修行というのはあまりに多すぎると、カルクブレンナー自身も私の演奏を数回聞いた後認めています。エルスネル先生、このことからわかるでしょう、あの本物のヴィルトゥオーゾには嫉妬心などかけらもないということを。もし私が思い描いているような結末になるのだと確信が持てるのであれば、私は3年の修行をすると決心できます。一つ、私の心の中で非常に明確なことがあります。「自分はカルクブレンナーのコピーにはならない」ということです。彼は新しい芸術の時代を作るという、大胆かもしれませんが誠実な私の結論を壊すべきではありません。もし私が今、これ以上のレッスンを受けるとしても、それは将来私が独立できるようになるというだけのことです。 1831年12月16日、パリのショパンからポーランドのTitus Woyceichowskiへ:私は自分がカルクブレンナーと同じくらい上手く弾けていると言えたら、と思います。彼はパガニーニとは全く別の形で完璧です。カルクブレンナーの魅力的なタッチ、静かさ、そして演奏の技量は筆舌に尽くしがたいものです。どの音符からも彼が大家であることが伝わってきます。彼は真に巨大で、他のどの芸術家も小さくしぼんで見えるのです。・・・私はカルクブレンナーの演奏を大いに楽しみました。彼は私に弾いて聞かせているとき、止まってしまうほどのミスを犯したのですが、そこからの軌道修正は実に見事なものでした。その時会って以来、私たちは毎日のように会っています。彼が私の元へ来ることもあれば、私が行くこともあります。彼は私に3年間自分の下で修行すれば、偉大な芸術家にしてやると提案してきました。私は自分の至らない点はよく分かっていますが、あなたの真似はしたくありませんし、3年間は私にとっては長すぎます、と返事をしました。・・・ですが、多くの友人たち は私に、レッスンを受けない方がいいと助言してきました。彼らは、私がカルクブレンナーと同様に上手く演奏できるし、彼は虚栄心から私を弟子にしたいだけだと考えています。おかしなことです。カルクブレンナーは誰とでも関わろうとするわけではないので、人としてはさほど慕われているわけではありません。しかし音楽を解するものであれば、誰もが彼の才能を認めなければならないはずです。彼には、私がこれまで聴いたヴィルトゥオーゾ達の誰よりも優れた点があると保証します。私は両親に同じことをいいましたが、二人ともよくわかってくれました。しかしエルスネル先生はダメでした。彼は、カルクブレンナーが嫉妬心から私の演奏のあら探しをするのだと考えています。
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