シャルル・デュトワと日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 04:27 UTC 版)
「シャルル・デュトワ」の記事における「シャルル・デュトワと日本」の解説
デュトワは大の日本びいきとして知られ、和食や陶磁器の愛好家でもある。インタビュー収録時にも広重や北斎の画集を眺める姿がある。 2000年から3年間、札幌を中心に行われるパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)、2004年から7年間、アイザック・スターンの遺志を継ぎ、宮崎国際音楽祭の芸術監督を務めた。宮崎では大ホールでのオーケストラ公演のほか、デュトワが得意とする小編成の楽曲や室内楽曲のレパートリーをも取り上げ、人形劇を加えてのファリャの『ペドロ親方の人形芝居』やストラヴィンスキーの『兵士の物語』を街頭で演奏するなどの企画が披露された。 1999年にはNHK教育テレビ『シャルル・デュトワの若者に贈る音楽事典』(世界の音楽主要10都市を特集した全10回の教育ドキュメンタリー・シリーズ)に出演、自らキャストとして作曲家の役にも扮した。 他にも、NHK教育テレビ「N響アワー」の新年番組にもゲストとして袴姿で出演している。(この際、「あけましておめでとうございます」と日本語で話した。) デュトワとかかわりのある人たちは日本と不思議な因縁で結ばれている。 初来日は1970年、日比谷公会堂での読売日本交響楽団の客演で、ストラヴィンスキー、ラヴェルなどを指揮した。 アルゲリッチが娘アニー・デュトワ(音楽ジャーナリスト)を身ごもったことに気づいたのが、この初来日の時であり、1974年には夫婦共演のために再び日本を訪れたが、夫婦喧嘩からアルゲリッチは一方的に公演をキャンセルして帰国、あげくデュトワと離婚に至ったという経緯がある。 その後、アルゲリッチはデュトワと和解し、近年では、デュトワ指揮、アルゲリッチのピアノで共演を重ねている。偶然とはいえ、デュトワとアルゲリッチは、それぞれ九州の音楽フェスティバルの芸術監督に就任している。また、娘アニーも、日本での取材が振り出しとなって記者活動を始めている。 2021年には、セイジ・オザワ 松本フェスティバルで小澤征爾の呼びかけにより、オーケストラの指揮を行った。ただし、新型コロナウイルスの影響により、YouTubeによるライブ配信となり、ラヴェルのマ・メール・ロワ(管弦楽版)、ドビュッシーの海、牧神の午後への前奏曲、ストラヴィンスキーの火の鳥(1919年版)を演奏した。 同年、11月27日に予定していた、新日本フィルとの共演の来日コンサートでは、デュトワが新型コロナウイルスに感染したと発表され、来日は中止となった。
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