シドッチと新井白石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:58 UTC 版)
1708年10月12日(宝永5年8月29日)日本での布教を目的にイタリア・シチリア島パレルモ出身のローマカトリック在俗司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが薩摩の屋久島に上陸した。間もなく捕えられ尋問のため長崎に護送された。長崎奉行による取り調べにはポルトガル語も解する大通詞・今村英生が主に通訳に当たった。しかしより正確な意思疎通をはかるため実際にはラテン語を解するイタリア出身の商館員アドリアーン・ダウ(Adriaen Douw, ? -1713)がシドッチの供述をオランダ語に訳し、英生らがそれを更に日本語に訳した。尋問もその逆で行われる。その結果が「異国人口書」として幕府に報告される。同時に英生はラテン語習得が命じられダウについて学習を始めるとともにシドッチ世話係にもなった。 将軍の側近であった新井白石はシドッチの供述書に満足せず直接尋問すべく江戸への護送を命じた。シドッチは英生らに付き添われ1709年10月25日長崎を出発、12月1日に江戸に到着後直ちに小日向の切支丹屋敷に収監される。以後数回にわたり白石は英生のラテン語を介しシドッチを尋問し、そのつど英生らを私邸によび復習・確認を行った。役目を終えた英生には功により帰国の際、白銀5枚が下賜された。白石はシドッチの博学に驚き西洋事情にも興味を示し、シドッチが日本語を習い覚えると何度も切支丹屋敷を訪れ知識を吸収した。その一方で公平を期すためオランダ人とも直接会い学習した。その一例は1711年4月3日折から滞在中の商館長一行を白石は浅草・善龍寺に訪ね、ジョアン・ブラウ(Joan Blaeu)の世界図1648年度版(東京国立博物館に現存)などを持ち込み、英生を介し西洋事情を聴取し、例によって私邸での復習・勉強会もおこなっている。白石は退職後も英生との書簡の交換で西洋の知識を吸収している。それらが名著『西洋紀聞』や『采覧異言』に結実された。英生は白石の洋学を陰で支えたといえる。
※この「シドッチと新井白石」の解説は、「今村英生」の解説の一部です。
「シドッチと新井白石」を含む「今村英生」の記事については、「今村英生」の概要を参照ください。
- シドッチと新井白石のページへのリンク