シクストゥス事件
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「シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマ」の記事における「シクストゥス事件」の解説
詳細は「シクストゥス事件」を参照 1917年、大戦が4年目に突入した頃、シクストゥスの義弟である皇帝カール1世は、シクストゥスを仲介役に立てて、フランスと極秘の和平交渉を行った。 皇帝は、忠実な幼なじみであり、副官だったタマーシュ・エルデーディ(英語版)伯爵の協力を得た。カールは、中立国のスイスを経由してシクストゥスと接触した。ツィタ皇后は、兄をウィーンに招待する手紙を書いた。中立国スイスに滞在していていたツィタとシクストゥスの母親が手紙を直接持参した。 シクストゥスは、1870年の普仏戦争後にドイツに併合されていたアルザス=ロレーヌのフランスへの返還、ベルギー復興、セルビアの独立、コンスタンティノープルのロシアへの割譲という、フランス側が合意した協議条件を携えて訪問した。カールは、最初の3つの条件については基本的に同意し、シクストゥス宛ての1917年3月24日付けの書簡で、フランス大統領に対して「あらゆる手段と個人的な影響力を行使するという極秘かつ非公式のメッセージ」を伝達した。 この20世紀の王朝外交の試みは、イタリアがチロルの割譲を要求した事が主な理由となり、結局失敗に終わる。また、ドイツはアルザス=ロレーヌ地方に関する交渉を拒否し、ロシアの崩壊を目前にした状況で戦争を止めたがらなかった。 1918年4月、この書簡の内容が漏洩した時、シクストゥスの義弟であるオーストリアのカール1世は、フランスの首相ジョルジュ・クレマンソーがカール1世の署名入り書簡を公開するまで、関与を否定していた。オーストリアは同盟国であるドイツへの依存度を高め、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はカールを激しく非難した。
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