ザ・ストゥージズ離脱後の活動
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「スティーヴ・マッケイ」の記事における「ザ・ストゥージズ離脱後の活動」の解説
ザ・ストゥージズを解雇されたマッケイは、アナーバーに戻り、カーナル・キッチンの活動とディスカウント・レコーズでのアルバイトを再開した。 1972年にカーナル・キッチンは解散し、マッケイはブルースバンドのモジョ・ブギー・バンド(The Mojo Boogie Band)へ参加する。また、同じ時期に電気技師としても活動を開始する。 モジョ・ブギー・バンドはデトロイト近郊でのライブ活動を中心としたバンドであり、リズム・アンド・ブルース歌手のアンドレ・ウィリアムズ(英語版)と共演するなどコンスタントに活動はしていたが、商業的なレコード契約には辿り着くことが出来ず、1976年に解散した。 モジョ・ブギー・バンド解散後の1977年頃にマッケイはアナーバーを離れ、カリフォルニア州ベイエリアに向かう。 彼の地で電気技師として働くと共に、音楽活動では既にある程度商業的に成功していたジョージ・フレインを頼る。フレインからは彼のバンドのギタリスト、ビル・キッチナーを紹介され、彼のソロユニット、ムーンライターズ(The Moonlighters)に参加した。このバンドはアマースト・レコーズ(Amherst Records)との契約締結に成功し、マッケイもそのレコーディングに参加するが、その後の継続的な活動には加わらず、ベーシストでヴォーカリストだった当時の妻、アニー・ガルシア・マッケイとカーナル・キッチンを再開するとともに、いくつかのバンドのセッションプレーヤーとして過ごすことになる。本人はこの時期に継続的にセッション参加したバンドとして、コマンダー・コディ・アンド・ヒズ・ロスト・プラネット・エアメン、ミッチ・ウッズ・アンド・ロケット88’s、ラルフ・シャイン・ブルース・バンドを挙げている。1978年にはカーナル・キッチン名義でレコーディングを行うが、リリースはされず、同年にバンドは活動を停止した。 1980年に入り、ラルフ・シャイン・ブルース・バンドの唯一のアルバム『ザ・ラルフ・シャイン・ブルース・バンド』のレコーディングに参加する。このアルバムは1981年に発売された。 1982年にはスネークフィンガーの企画したプロジェクト、ヒストリー・オブ・ザ・ブルースにホーンセクションのリーダーとして参加し、ベイエリアで数回のセッションを行う。そのセッション活動の傍ら、1983年にヴァイオレント・ファムズのゴードン・ガノ(英語版)に誘われ、I-Beam(英語版)で開催されたライブに参加する。これ以降、ヴァイオレント・ファムズとは頻繁にセッションを行うことになる。また、同じ頃、イビリー・ビビリー・エクスターナル・ピンヘッド・バンド(The Ibbilly Bibbilly Experimental Pinhead Band)をバックに従えてカーナル・キッチンを再開したが、この時は短期間で終了している。この年の終わり頃にラフ・トレード・オランダがヒストリー・オブ・ザ・ブルースのライブアルバムを企画し、この企画に付き合う形でマッケイは電気技師を辞め、スネークフィンガーと共にオランダへ渡った。 1984年、マッケイはスネークフィンガーとのライブ活動が終了した後もそのままオランダに滞在を続け、カーナル・キッチンを再開すると同時にレックス・リーズン・ブルース・バンド(Rex Reason Blues Band)というバンドにも参加する。レックス・リーズン・ブルース・バンドはヴァイオレント・ファムズがオランダツアーを行った時はサポートアクトとして同行した。ヴァイオレント・ファムズのヨーロッパツアー終了後、彼らの2ndアルバム『ホロウド・グラウンド(英語版)』への参加を要請されるが、お互いの予定が調整できず、ヴァイオレント・ファムズはマッケイに代わるアルト・サックス奏者としてジョン・ゾーンを呼んだ。 レコーディングには参加できなかったが、ヴァイオレント・ファムズからは『ホロウド・グラウンド』発売後に行われたヨーロッパツアーへの参加を打診され、承諾した。その後のアメリカツアーに同行する予定はなかったが、彼らのホーンセクション、ホーンズ・オブ・ジレンマのリーダー、ジグムンド・スノペック3世が同行できなくなった際に代役として呼ばれ、そのまま彼らの3rdアルバム『ザ・ブラインド・リーディング・ザ・ネイキッド(英語版)』のレコーディングにも参加することになる。 『ザ・ブラインド・リーディング・ザ・ネイキッド』は1986年にリリースされるが、レコーディング後に各メンバーがソロ活動に傾倒して一時的にバンド活動が停滞する。これにマッケイも影響を受け、他のバンドと共演することで音楽活動の継続を模索するが、アメリカツアーのはずが南アフリカに連れて行かれるなどの契約問題に悩まされて断念し、電気技師に戻ることになる。
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