サイモン・マクタヴィッシュの支配
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「北西会社」の記事における「サイモン・マクタヴィッシュの支配」の解説
創業者の一人ベンジャミン・フロビッシャーが没すると、サイモン・マクタヴィッシュはフロビッシャーの兄ジョゼフと取引を行い北西会社の乗っ取りを始めた。1787年11月にマクタヴィッシュ・フロビッシャー・アンド・カンパニーが設立され、北西会社の株式20株のうち11株を手にした。アレクサンダー・マッケンジーや、アメリカ人のピーター・ポンド(Peter Pond)、アレクサンダー・ヘンリー(Alexander Henry)も彼らの仲間となった。1795年、および1802年にもパートナーシップは再編され、株は分割されて現地の冒険商人たち(wintering partners)の取り分がますます増えた。1792年、マクタヴィッシュとジョン・フレイザー(John Fraser)はロンドンにマクタヴィッシュ・フレイザー・アンド・カンパニーを設立し、イギリスからモントリオールへの物資輸入とイギリスでの毛皮販売も手がけ、ビジネスの垂直統合に成功した。 北西会社はイングランド系やスコットランド系のケベック在住者が設立したが、ケベックにはフランス系人も多く、マクタヴィッシュもジョゼフ・フロビッシャーもフランス系女性と結婚し、社内ではフランス系の人々がカナダ各地にある交易拠点の建設・経営・所有を行い、先住民との毛皮取引のために奥地を旅していた。 北西会社は北西方向はグレートベア湖周辺へ、西へはロッキー山脈の反対側にまで営業範囲を伸ばした。さらにイギリス東インド会社が独占する清との貿易に食い込むため、アメリカ籍の船を使って中国と毛皮を直接取引する取り組みも進めたが、大きな利益は得られなかった。さらに1795年にはジャック・ビュー(Jacques Vieau)がミルウォーキーに交易拠点を、キウォーニー(Kewaunee)、マニトワック(Manitowoc)、シボイガン(Sheboygan)に前哨を置くことでアメリカの北西部領土へも進出した。ミルウォーキーにはじめて入植した白人はビューであり、その娘と結婚したサロモン・ジュノー(Salomon Juneau)が街へと発展させた。1796年には成長する世界市場への対応のため、また市場で重要な役割を果たす国際政治への対応のため、短い期間ニューヨークに拠点を移した。しかし、北西会社のライバルであるハドソン湾会社は良質な毛皮産地を多く含むルパート・ランドでの独占を勅許で定められており、北西会社はハドソン湾会社との競争で著しい不利にあった。北西会社はイギリス内閣に掛け合ってこの不利な状況を改めてもらおうとし、最低でも、先住民との毛皮の物々交換に必要な物資や商品を西部の交易拠点まで運ぶための航行権は認めてもらおうとした。マクタヴィッシュはイギリス首相ウィリアム・ピットのもとに陳情に赴いたが、要求はすべて拒否された。 それから数年の後、ハドソン湾会社による抑圧を解決する方法を未だ見出せずにいたマクタヴィッシュたちは賭けに出た。彼らはモントリオールからハドソン湾南部のジェームズ湾へ陸路で向かい、ハドソン湾沿いを海から探検しようとしたのである。1803年9月、陸路を探検した一行はジェームズ湾南部のカールトン島(Charlton Island、現在はヌナヴト準州)で自社船舶と合流し、この一帯を北西会社の領土であると主張した。ハドソン湾会社は自社領地で行われたこの大胆な行動に警戒心を高めた。マクタヴィッシュは交渉によりハドソン湾会社から合理的な妥協を引き出せると見込んでいたが、逆にハドソン湾会社からの報復を受けた。
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