ゴローニンの捕縛
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1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。 6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される。6月4日、ゴローニン、ムール(Fedor Mur)少尉、フレブニコフ(Andrei Khlebnikov)航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイ(Alexei Maksimovich)は陣屋を訪問。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった。 ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキン(ロシア語版)を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に拉致されロシアに連行されていた良左衛門をともないオホーツクへ戻った。
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