ゴローニンの捕縛とは? わかりやすく解説

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ゴローニンの捕縛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 06:53 UTC 版)

ゴローニン事件」の記事における「ゴローニンの捕縛」の解説

1811年文化8年)、ペトロパブロフスク寄港していたスループ船ディアナ号艦長ゴローニン海軍大尉千島列島南部測量任務命じられディアナ号千島列島南下5月択捉島北端上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送行っていた松前奉行所調役下役石坂兵衛出会ったゴローニン薪水補給求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し会所の手紙を渡した。しかし、逆風遭遇したことに加えて当時ヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡関心持ち、同海峡通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニン振別向かわず穏やかな入り江がある国後島南部向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門警固南部藩兵に砲撃させると、ゴローニン補給受けたいというメッセージ入れて送り日本側と接触した6月3日海岸武装した日本側の役人面会日本側から陣屋赴くよう要請される6月4日ゴローニンムール(Fedor Mur)少尉、フレブニコフ(Andrei Khlebnikov)航海士水夫4名(シーモノフマカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイ(Alexei Maksimovich)は陣屋訪問食事接待受けた後、補給して良い松前奉行許可を得るまで人質残してほしいという日本側の要求拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見てロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになったディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニン奪還すべく陣屋砲台砲撃戦行ったが、大した損害与えることができず、そして攻撃続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物海岸残して、一旦オホーツク撤退したオホーツク着いたリコルドは、この事件海軍大臣報告しゴローニン救出遠征派遣要請するため、9月サンクトペテルブルクへ出発した途中イルクーツク県知事トレスキン(ロシア語版)を訪問したところ、既に遠征派遣願い出ているとの説明受けたことからイルクーツク滞在したが、ヨーロッパ情勢緊迫化のため日本への遠征派遣却下となり、リコルドは文化露寇の際に拉致されロシア連行されていた良左衛門ともないオホーツク戻った

※この「ゴローニンの捕縛」の解説は、「ゴローニン事件」の解説の一部です。
「ゴローニンの捕縛」を含む「ゴローニン事件」の記事については、「ゴローニン事件」の概要を参照ください。

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