コンディション管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:58 UTC 版)
金田はコンディション、特に左腕の状態を維持するために普段の生活から極めて細やかな神経を配っていた。そして、肩が冷えることを極端に嫌っていた。以下はその例である。 就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターを着けて、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入った。 自家用車(クライスラー・ニューヨーカー)にはエアコンを置かず、扇風機を付けていた。また、自宅のクーラーは1台だけだった。 現役時代、乱闘時にはいかに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにしてから飛び出したり、酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある程、左腕を大事にしていた。 賢一たち自分の子供を抱くときにすら、絶対に左手で抱くことはなかった。 「一人前の野球選手が自分で車なんか運転したらいかん」と、自らは運転せず運転手付きの車で球場まで通っていた。運転することで神経を消耗するとプレーに影響するというのがその真意。その上「窓を開けた時に吹き込む風で左肩や腕を冷やさないように」左側には絶対に座らなかった。 前記の「肩や腕を冷やさないように」するために試合においても、たとえ夏場であろうともアンダーシャツは長袖を常に着用していた。金田が夏場に解説する試合で、北別府学が夏場を理由に半袖を着ていた(=投手の命とも言える肩と腕を冷やすことになるため)ことを見咎めて叱責したエピソードがある。この叱責を機に北別府は夏場であっても私服もアンダーシャツも長袖を着用することにしたという。 ヒゲを剃るときも、指先を切る恐れのある剃刀は使わず、電気シェーバーを使用。外出時にも、つま先を剥き出しにするサンダルは絶対に履かないなど、普段の生活からケガの防止には人一倍気を遣っていた。 マッサージを受ける時は、一部分のみのマッサージはせずに必ず全身をマッサージするように心がけた。また、鍼、灸の類は一切しなかったという。 シーズンオフの休養の重要性を晩年まで説いていた。金田自身、オフは完全に休養に充ててコンディションを整えている。1958年のオフに父親の死去であまり休養が取れなかった時は、それが祟って以後3年間ベストコンディションに戻らなかったという。この3年間も毎年20勝していたが、1960年と1961年はちょうど20勝で止まった。1960年は残り4試合でようやく20勝目を挙げ、1961年には途中11連敗を喫して2か月以上勝星から遠ざかるなど苦しいシーズンを送った。 当時のプロ野球選手は喫煙者が珍しくなかったが、金田は嫌煙家であった。
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