グラモフォン社とHMV
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「フレッド・ガイズバーグ」の記事における「グラモフォン社とHMV」の解説
1898年、 ロンドンにグラモフォン社が創設された。それまでエミール・ベルリナーの下で、ピアノ伴奏者兼録音主任として働いていたガイズバーグは、ニューヨークを離れてロンドンに渡り、同社最初の録音技師として入社した。リバプールに上陸したときは、録音機材と25ドルの自転車、ベルリナーに与えられた紹介状と指示書きの束を持っていたという。ロンドンで最初に行なった録音の中には、メイデン・レーン(Maiden Lane)のレストランルールズ(Rules)で歌っていたオーストラリア人の歌手シリア・ラモンテ(Syria Lamonte)による数曲の歌も含まれていた。 ガイズバーグは、テノールのエンリコ・カルーソーの歌唱を最初に録音した人物であり、この録音は1902年4月11日にミラノで行なわれた。当時の原始的な録音機によるものながら録音は上々に仕上がり、この企画は芸術的に成功しただけでなく、金銭的にも見合うものになった。1903年、一連のカルーソーのレコードは、高めの値段が付けられ、蓄音機の喇叭に耳を傾け「主人の声 (His Master's Voice)」を聴く犬ニッパー(Nipper)の図柄を配したビクター赤盤(Red Seal)の最初のリリースとして発売された。カルーソーのビクター盤は爆発的な売れ行きとなり、彼を国際的なスターの座に押し上げた。カルーソー自身も「私のビクター盤は、そのまま私の伝記になるだろう」と語った。 ガイズバーグは、弟ウィリアム(William)とともに兄弟で一緒に働いた。彼らが契約して録音を残した国際的なスターたちには、アデリーナ・パッティ、フランチェスコ・タマーニョ(Francesco Tamagno)、フョードル・シャリアピン、ベニャミーノ・ジーリ 、ネリー・メルバ、ジョン・マコーマック(John McCormack)、フリッツ・クライスラーなどが含まれていた。ガイズバーグはまた、カストラート歌手(システィーナ礼拝堂のアレッサンドロ・モレスキ)の録音を残した唯一のプロデューサーであり、さらに、インドと日本で、それぞれ最初に録音をおこなった人物であった。1902年11月2日、ガイズバーグが刻んだインドで最初の蓄音機による録音は、ガウハール・ジャーン(Gauhar Jaan)によるカヤル(khyal)の歌唱であった。日本では、273面の録音を1903年2月4日から月末までの間に行なった。ガイズバーグは、革命前のロシアにも何度か足を運んでおり、彼が行なった録音は、レコード産業にとって初期の最も大きな市場のひとつを開拓していく大きな助けとなった。ロシア人のテノール歌手ウラジミール・ロジング(Vladimir Rosing)の最初のレコードを作ったのもガイズバーグであった。さらにガイズバーグは、ポーランド、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、スウェーデン、フィンランド、アルメニア、ウクライナ、グルジアなどでも出張録音を行ない、各地における商業録音の先鞭をつけた。 ガイズバーグは、後継者となったレッグやカルショウとは異なり、演奏者の演奏の仕方に何らかの影響を与えることは、通常の自分の仕事には入らないと考えていた。ガイズバーグはできる限りよいアーティストたちを見つけ出し、彼らと契約を交わし、その演奏を可能な限りの最高の音質で、忠実に音盤に残した。ガイズバーグは同僚に、自分の務めは、個々のレコーディング・セッションにおいて、できるだけ多くの音の写真、つまり録音盤を制作するだけのことだ、と語っていた。
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