グアスタッラ伯国/公国
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「グアスタッラ」の記事における「グアスタッラ伯国/公国」の解説
1406年、テルツィ家はマントヴァ出身のグイード・トレッリ (it:Guido Torelli) にこの土地を譲り、1539年までトレッリ家 (it:Torelli (famiglia)) によって治められることになる。1428年にはグイード・トレッリにグアスタッラ伯爵の称号が与えられた。グアスタッラは伯爵領の中心となり、宮殿・城・教会・広場などの都市空間が整備され、ルネサンス都市として面目を一新した。1522年に没したアキッレ・トレッリ (it:Achille Torelli, conte di Guastalla) に男子はなく、唯一の女子ルドヴィカ・トレッリ (it:Ludovica Torelli) がグアスタッラ女伯(Contessa di Guastalla)となった。 マントヴァ公ゴンザーガ家出身の傭兵隊長(コンドッティエーレ)フェッランテ1世 (it:Ferrante I Gonzaga) は、ポー川河畔のこの豊かな都市に着目し、自らの家門で所有することを図った。1539年10月3日、フェッランテ1世はルドヴィカから 22,280スクーディの金で伯爵領を買い取って神聖ローマ帝国に併合した。1541年、ミラノ公国からの独立を宣言したフェッランテ1世に対し、皇帝カール5世はグアスタッラの正式な領有権を認めた。 グアスタッラのゴンザーガ家(初代フェッランテ1世とその子孫)は、207年にわたってこの領土を治めた。この時期にグアスタッラは最大の繁栄期を迎え、その勢威は同時代の諸国家とも肩を並べるようになった。領主はグエルチーノやトルクァート・タッソ、ジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニなどの芸術家のパトロンとなった。グアスタッラの造幣局(1746年までこの街は独自の貨幣を発行していた)では、ガスパロ・モーラ (it:Gasparo Mola) が働いていた。3代目のフェッランテ2世 (it:Ferrante II Gonzaga) は1621年にグアスタッラ公爵に昇叙された。グアスタッラ公国(グアスタッラ公爵領)の領土も広がり、フェッランテ2世はレッジョーロを、4代目のチェーザレ2世 (it:Cesare II Gonzaga) はドーゾロとルッザーラをそれぞれ領土に加えた。 1627年にゴンザーガ家の宗家であるマントヴァ公爵家の直系が絶えると、マントヴァ公位はゴンザーガ家の別の分家(ヌヴェール公爵家)のカルロ1世がフランスを後ろ盾として継承するが、フェッランテ2世はこれに異を唱え、オーストリア・スペインを後ろ盾としてマントヴァ公位の相続を主張し、マントヴァ継承戦争(イタリア語版、英語版)(1628年 – 1631年)に発展した。 17世紀の終わりまで、グアスタッラの町は、グアスタッラ公国の首都として、一定の重要な役割を担っていた。
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