グアダルキビール川での足止め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 16:46 UTC 版)
「バイレンの戦い」の記事における「グアダルキビール川での足止め」の解説
デュポンのバルブー将軍(フランス語版)とイニャス将軍(フランス語版)率いる2個師団がアンドゥハルに留まって、マドリードとセビリア間の連絡路およびその付近の平原を平定しようとしている間、カスターニョスの4個師団は南から着実と進軍し、ゲリラも山脈とラ・マンチャへの道を塞ごうとした。ヴィーデルの師団はバイレンの東に配置され、山道を守備していたことからヴィーデルは7月1日にカッサーニュ将軍(フランス語版)の旅団をハエンとラ・カロリナのゲリラの鎮圧に派遣することを余儀なくされ、フランスの補給線はさらに東へと延びた。一方、1,500人を率いていたリジェ=ベレー将軍はグアダルキビール川南岸にあるメンギバルの哨站へ移動した。アンドゥハルでは河畔の塔が要塞化されたが、グアダルキビール川は渡河できる場所が多すぎる上、辺りの山から砲撃されやすいのでデュポンの守備はあまり意味を成さなかった。カッサーニュはゲリラを追い散らすと7月5日にバイレンへと戻ってきた。彼の師団は死傷者200人を出したが、その見返りは何もなかった。スペインはその行き道を先回って、道中の町を全て略奪したのであった。 ここにきて、約束された援軍がようやく現れた。ゴベール将軍(英語版)とルフラン(フランス語版)は7月15日に王の門を通り、シエラ・モレナ山脈に軍を一部残して、残りの歩兵と胸甲騎兵でアンダルシアへ進軍した。デュポン軍はこの援軍で2万人を超えた。しかし補給は足らず、近くの平民もすでに逃亡しており、デュポン軍は自ら収穫し、穀物を挽き、食料を調理しなければならず、グアダルキビール川の汚染された水を飲んだ結果600人が病に倒れた。フランス軍の証言によると、「状況は酷かった。毎晩、武装した平民が私たちの近くを歩き回り、荷物を盗み、私たちは毎晩暗殺されることを覚悟していた」という。
※この「グアダルキビール川での足止め」の解説は、「バイレンの戦い」の解説の一部です。
「グアダルキビール川での足止め」を含む「バイレンの戦い」の記事については、「バイレンの戦い」の概要を参照ください。
- グアダルキビール川での足止めのページへのリンク