ガン告知
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1986年(昭和61年)11月には『極道の妻たち』をヒットさせ、その後『吉原炎上』の撮影中に京都に転居した。だが、1988年(昭和63年)公開の『肉体の門』も興行的に失敗し、マンネリを打破するために二・二六事件を題材にした『226』の監督を担当するが、撮影終了後の1989年(平成元年)3月に食道がんを告知された。 同年4月、京大病院に入院した五社は入院したことを仕事仲間や娘に隠すためにオーストラリアにいる兄の所に行ったふりをした。『226』のスタッフの映像京都の西岡善信や森田富士郎らに、「オーストラリアに旅行してくる」と手紙を出して密かに手術を受け7月に退院するが、その間たまたま知人の見舞いに京大病院に来た萩原健一に目撃され、西尾らの知るところとなっていた。 退院後は11月にヨーロッパのツアー旅行に行くなど養生した後、1990年(平成2年)6月から『陽炎』の撮影に入った。体調が思わしくない中、翌1991年(平成3年)11月からは『女殺油地獄』の撮影にかかるが、これは井出雅人が亡くなる前に「五社に」と書き残した共同脚本であった。 『女殺油地獄』は古巣のフジテレビの協力を得て製作されたが、現場で五社の体調が悪化し入院したため撮影が一時中断し、五社は病院から現場に通うことになった。青白く痩せ衰えてきた五社は撮影が終了するとすぐ病院に入院し、完成披露試写や1992年(平成4年)5月の公開日には出席できなかった。 しかし、病室でも五社はかつてのヒット時代劇ドラマの『三匹の侍』のリメイクを企画していた。キャスティングも渡辺謙、本木雅弘、竹中直人に決まろうとしていたが、五社は同年の8月30日の12時36分に京都桂病院で死去した。享年63。五社の遺言により大掛かりな告別式や葬式は行われず、ごく少数の身内のみで川越市の東陽寺にて通夜と密葬ガ行われた。 五社は根強いファンに支えられながらも映画賞には縁が薄く、興行ベストテンに入った作品はいくつかあるが、キネマ旬報ベストテンには一度も入賞しなかった。『陽暉楼』では、日本アカデミー賞において監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しながら作品部門では優秀賞(上位5作品)に漏れるという珍記録を作っている。
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