カール・マルテルとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 00:24 UTC 版)
「ウナール1世」の記事における「カール・マルテルとの関係」の解説
735年、フランク王国宮宰カール・マルテルがアクィタニアに侵攻した。彼は広範囲に軍を展開して、要塞化されていた中心都市ボルドーも占領した。この時にカール・マルテルが抵抗を受けたという記録はない。この遠征の目的は、強大なライバルだったウードがいなくなった機会にアクィタニアにフランク王国の支配を確立し、ウナール1世に臣従と貢納を誓わせるというものだった。9世紀初頭に成立した前メス編年記によれば、カール・マルテルはウナール1世にアクィタニア公位を与えた上で、ウナール1世とアットンに、自身とその息子カールマンやピピン3世に対する貢納を約束させた。目標を達したカール・マルテルは、ボルドーやウードの獲得地を含むアクィタニアの領土を奪わずに撤退した。 8世紀中盤から後半に著されたパルドゥルフス伝によれば、ウナール1世はウードからプリンケプスの称号を受け継いだが、カール・マルテルからはレガトゥスに任じられた。736年、ウナール1世とアットンの兄弟は協定を破り反乱を起こした。何度か戦闘がおこったのち、アットンはカール・マルテル軍に捕らえられオセール司教の元で投獄されたが脱出した。しかしウナール1世はこの弟を裏切り、ポワチエに呼び寄せて彼の目を潰し修道院に幽閉した。おそらくこの裏切りと引き換えに、カール・マルテルはウナール1世を許し公の地位にとどまることを許した。 ウナール1世とカール・マルテルの間の和平は後者が死去する741年まで続いたとされるが、それまでにも何度か小規模な紛争があったことが示唆されている。アニアーヌ編年記は10年以上後の752年から始まったピピン3世のナルボンヌ包囲戦においてウナール1世の子ワイファリがフランク軍を「彼の父がカール・マルテルに対してしたように」妨害したと述べている。この父世代の紛争とは、736年から739年にかけてカール・マルテルとキルデブラント1世の兄弟が数度行った、セプティマニアやプロヴァンスのウマイヤ朝勢力排除のための遠征の時期を指しているものと考えられる。737年にカール・マルテルはベール川の戦いでウマイヤ朝に大勝したが、ここで遠征の目的だったナルボンヌ攻略に移らず撤退したのは、ウナール1世がフランク軍の連絡線を脅かしたからである可能性がある。
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