館陶
管統
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袁譚の将。 はじめ青州刺史袁譚のもとで東萊太守を務めていた。袁譚が袁尚と仲違いすると劉詢が漯陰で反旗を翻し、諸城はみな彼に呼応した。袁譚が「いま州を挙げて叛逆しているのはわしの不徳のせいなのか」と歎息すると、別駕従事王脩は「管統は叛きません。必ずやってきます」と言った。十日余りして管統は袁譚のもとに馳せ参じてきたが、郡に残した妻子は叛乱軍に殺されてしまった《王脩伝》。 太守でありながら妻子とともに任地にいたことから、彼は東萊郡の豪族であったと考えられる。おそらく管承とは同族でやはり黄巾賊あがりなのだろう。袁譚は領内に割拠する黄巾賊に官位を授けて手懐けていた《袁紹伝》。 そこで管統は楽安太守に任じられ、王脩も楽安で兵糧輸送にあたることになった。しかし袁譚は王脩の諫めを聞かずに袁尚と争い、曹操に付け込まれることになってしまった。王脩はそれを聞いて高城に駆け付けたが、すでに袁譚は曹操に処刑されていた。このとき諸城はみな曹操に降服していたが、管統だけは楽安城に楯籠っていた。曹操は王脩に袁譚の埋葬を許可するとともに、管統を斬ることを命じた。王脩は彼が亡国の忠臣であることから曹操のもとに出頭させたが、結局曹操は喜んで管統を赦免した《王脩伝》。 「高城」は原文に「高密」とあるのを改めた。高密は北海国に属し楽安の東方にあり、高城は勃海郡に属し北方にある。袁譚は西北方にいたので高城とすべきことがわかる。『集解』でも触れられていない。 【参照】袁尚 / 袁譚 / 王脩 / 曹操 / 劉詢 / 高城侯国 / 青州 / 漯陰県 / 東萊郡 / 楽安国 / 刺史 / 太守 / 別駕従事 |
韓当
カントウ | ||
弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛され、征伐に従軍して駆けずりまわった。しばしば危険を冒して敵陣を陥落させたり捕虜を手に入れたりして、別部司馬になった。韓当は勤勉労苦を重ねて功績を立てたが、軍旅の従僕として英傑たちに囲まれていたため爵位を与えられず、別部司馬になれたのは孫堅時代の末期であった。 孫策が長江を渡って三郡(丹楊・呉郡・会稽)を討伐したとき、先登校尉に昇進して兵士二千人・騎馬五十匹を授けられた。劉勲征討に従軍して黄祖を撃破し、帰還してから鄱陽の賊徒を討伐した。楽安の県長を領すると山越どもは畏服した。 のちに中郎将として周瑜らとともに曹操を迎撃し、さらに呂蒙とともに南郡を奪取し、偏将軍・領永昌太守に昇進した。宜都の戦役(夷陵役)では、陸遜・朱然らとともに涿郷で蜀軍に攻撃をかけて彼らを大破、威烈将軍に転任して都亭侯に封ぜられた。曹真が南郡を攻撃したとき、韓当は東南の一郭を守った。遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、心を一つにして固守し、目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた。 黄武二年(二二三)、石城侯に封ぜられ、昭武将軍に昇進して冠軍太守を領した。のちに都督の号を付加され、敢死兵・解煩兵(精鋭部隊)一万人を統率した。五年、丹楊の賊徒を討伐して彼らを撃破したが、ちょうどそのころ病気で卒去した。 本伝では黄武二年の記事に続けて韓当の死に言及しているが、その後文に「その年、孫権は石陽を征討をした」とあり、『呉主伝』と比べると黄武五年にあたることがわかる。 【参照】黄祖 / 朱然 / 周瑜 / 曹真 / 曹操 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 陸遜 / 劉勲 / 呂蒙 / 永昌郡 / 会稽郡 / 冠軍郡 / 宜都郡 / 呉郡 / 蜀 / 石城県 / 涿郷 / 丹楊郡 / 長江 / 南郡 / 鄱陽県 / 楽安県 / 遼西郡 / 令支県 / 威烈将軍 / 県長 / 侯 / 昭武将軍 / 先登校尉 / 太守 / 中郎将 / 都亭侯 / 都督 / 別部司馬 / 偏将軍 / 解煩兵 / 敢死兵 / 山越 / 督司(目付役) / 陪隷(従僕) |
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