カリーニン戦線での戦闘
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「第1親衛戦車旅団」の記事における「カリーニン戦線での戦闘」の解説
1942年9月、カリーニンでカトゥコフが第3機械化軍団(ロシア語版)を組織した。第1親衛戦車旅団は9月18日にこれに加わっている。旅団はカリーニン戦線に移動し、第一次ルジェフ=スィチョーフカ攻勢(ロシア語版)では激戦区に動員された。冬、森林地帯や湿地帯などで枢軸国陣営の激しい航空攻撃に曝されながらも、ベールイ、ヴェリーキエ・ルーキ、ネリドヴォ付近の要点を押さえた。 一連の戦いの最中、アレクサンドル・ブルダ率いる部隊がドイツ軍に包囲された騎兵部隊の救出に成功している。 カリーニンで行われた雪中での戦闘により、旅団は264人を失った。1942年12月22日のボリショエ・ボリャチノにおける戦闘では、旅団で最も優れた整備士と評される、モスクワ近郊の戦闘の英雄アレクセイ・ディビンが戦死した。さらに、12月23日のヴェレンスタの戦闘では、KV-1の車長を務めていたジュマシュ・ラフメトフ(ロシア語版)親衛上級中尉が戦死したが、彼はこの時までに戦車を11両撃破していたエースだった。カリーニン戦線における旅団の状況については、戦後の回顧録にも記されている。 …カリーニン戦線での冬はとても厳しかった。非常に雪が降った冬だったため、あらゆる種類の物資の供給や輸送が大変困難となった。人々は飢えており、いら立っていた。私たちの飛行機は匍匐飛行で食料の入った箱を落としたようだが、その多くは深い雪で見つからなかった。食料の発見後、フィールドキッチンで調理し始めると、2~3人のドイツ兵が匂いにつられて慎重に近づいてきた。彼らの手には、5~6個の飯盒が握られていた。彼らは肩をすくめ、目線を下げて行列の最後尾に並んでいた。調理兵はドイツ兵に悪態をつきながらも、何かを渡していた。他の兵士たちも見て見ぬふりをしていた。ドイツ兵がキッチンで調理を始めると、我々もそれを見に行った。その光景は、どちらも同じだった。 1943年2月、第3機械化軍団麾下の第1親衛戦車旅団は400km移動して北西戦線に移り、北極星作戦(ロシア語版)に加わった。第三次ハリコフ攻防戦に参戦するもソ連の敗北に終わったため、1月で北西戦線を離脱している。 1943年3月5日、ハリコフ州ロゾバヤ(ロシア語版)でドイツ軍が反撃に出ると、T-34の車長を務めていたソ連邦英雄エフゲニー・ルッポフ(ロシア語版)が負傷し、ロゾバヤ駅付近でドイツの捕虜となった。彼は1945年にアメリカにより解放されて本国へ送還されたが、帰国後第5予備狙撃兵師団の特別試験をクリアしたため、同年より予備役として復帰した。 ハロードナヤ・ゴーラ付近を移動するドイツ武装親衛隊のIV号戦車(1943年3月) ハリコフの都市にて、鹵獲したティーガーIを動かすソ連兵(1943年3月)
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