カッシウス法案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:04 UTC 版)
カッシウス法案に関わる年表 紀元前499年(496年) レギッルス湖畔の戦い 紀元前494年 聖山事件 護民官設立 紀元前493年 カッシウス条約締結 紀元前492年~491年 ローマ食糧危機 紀元前486年 ヘルニキ族降伏 カッシウス法案提出 土地分配十人委員会設立決定 紀元前485年 カッシウス処刑 紀元前481年~480年 軍務ボイコット運動 紀元前476年 前執政官メネニウス告発 紀元前475年 前執政官セルウィリウス告発 紀元前473年 前執政官二人を告発 護民官ゲヌキウス不審死 紀元前472年 プブリリウス法案提出 紀元前471年 プブリリウス法成立 紀元前467年 アンティウム植民 紀元前462年 テレンティリウス法案提出 紀元前454年 アテナイ使節団派遣 紀元前452年 使節団帰国 紀元前451年 十人委員会設立 紀元前450年 十二表法成立 紀元前449年 十人委員会解散追放 恐らく共和政ローマにおける最初の土地分配法は紀元前486年に提案された。この年、ヘルニキ族との間に和平条約が締結され、彼らはその領土の2/3をローマに割譲する事に同意した。当時スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスが三度目の執政官を務めており、この新領地を他のローマ国有地と共にラティウム同盟とプレブスたちに配給するよう提案し、法整備を進めようとした。 ニーブールによるとこの法は、王政ローマ六代目セルウィウス・トゥッリウス王の定めた、ローマ領のうちパトリキの支配領域を明確化し、残った部分をプレブスたちに分け与え、パトリキから十分の一税を徴収する法を復活させたものだという。 このカッシウスの法案は元老院 (その一部は国有地を不法占拠していたようだ) と、同僚の執政官プロクルス・ウェルギニウスによって否決された。彼らとしては、カッシウスがこれ以上人気を集めてしまっては困るという思惑もあったようだ。ウェルギニウスは公然と法案に反対し、プレブスたちは土地がラティウム同盟にも分配されることに不安を感じていた。更にはカッシウスが王位を狙っているのではないかという疑惑も持ち上がっていた。 ウェルギニウスは、法案がローマ人にのみ適用されるのであれば賛成に回ると妥協案を提示した。これに対抗してカッシウスは、プレブスたちに食糧不足解消のため輸入されていたシキリアとうもろこしの売上を還元する事を約束したが、プレブスたちはこれを王権の買収と見做して拒否し、カッシウスの野望は益々まことしやかに囁かれるようになった。 元老院ではアッピウス・クラウディウスらが対応を議論し、まずは実態調査のための土地分配十人委員会が設立されることが決定された。しかし、実際に委員会が組織されることはなかった。 紀元前485年にカッシウスが退陣すると、彼はクァエストル・パッリキディ(査問官)のカエソ・ファビウスとルキウス・ウァレリウスから王位を狙ったと糾弾され処刑された (恐らくウァレリウス法に抵触)。紀元前159年には家のあった場所に立っていた彼の像もケンソルによって鋳潰されたという。
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