エンド・オブ・ザ・ロード
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「ジョニー・バーネット・トリオ」の記事における「エンド・オブ・ザ・ロード」の解説
22 March 1957 Bradley Film & Recording Studio, 804 16th Ave. South, Nashville, TN – Johnny Burnette and The Rock'n'roll Trio (Johnny Burnette [vcl], Grady Martin [gt], Bob Moore [bass], Farris Coursey [drums] + vocal chorus. Producer: Owen Bradley) マトリクス曲目作曲者102124 TOUCH ME Lewis T. Smith, Robert E. Hyde, Johnny Burnette 102125 IF YOU WANT IT ENOUGH Van Grayson, Mel Howard 102126 BUTTERFINGERS Buddy Kaye, Mort Garson 102127 EAGER BEAVER BABY Ruth Roberts, Bill Katz, Stanley Clayton 1957年3月22日再びナッシュビルで録音が行われた。ポールもドーシーもいない、実質的にジョニーのレコード制作だった。5月「イーガー・ビーバー・ベイビー」8月「バター・フィンガーズ」発売。コーラルは商業的成功が得られないトリオに対し急速に興味を失い12月「ロック・ビリー・ブギー」が同レーベル最後のシングルとなる。 57年の暮れにはバーネット兄弟は和解、共に西海岸に拠点を移す。ドーシー名義でマイナーレーベル「サーフ」(Surf)からジョン・マラスカルコ作曲「バーザ・ルー」(Bertha Lou)をリリースするが、その時点でまだコーラルとの契約が残っており、すぐさま回収となっている。 その後ジョニーはソロに転向,「ドリーミン」(1960年 11位)「ユーアー・シックスティーン」(1960年 8位)がヒット、1964年カリフォルニア州クリアレイクでの船舶事故により死去。ドーシーはソロに転向、ソングライターとしてリッキー・ネルソンに曲を提供「ビリーブ・ホワット・ユー・セイ」(1958年 4位)「イッツ・レイト」(1959年 9位)がヒット 、70年代には自己名義のシングルを多数カントリー・チャートに送り込む。1979年心臓発作により死去。ポールはメンフィスに戻り1960年「セーフティ・エレクトリカル」(電気工事会社)を設立、成功させる。1980年代に音楽活動を再開、チャーリー・フェザース、エディ・ボンド、ジョニーの息子リッキー・バーネット、ドーシーの息子ビリー・バーネットらと共演、録音を行う。2003年結腸癌により死去。 3人はトリオ時代よりも解散後に実績を残すが、60年代~70年代のUKロックに与えた影響から後の評価は逆転する。70年代後半ロンドンのテッズやロッカーズによるパンク、(ネオ)ロカビリームーブメント(後にニューウェーブ、テクノ等に細分化)により脚光を浴び、ネオロカビリー界のカリスマ的存在となる。
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