エンドレスエイトについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:22 UTC 版)
「涼宮ハルヒの憂鬱 (アニメ)」の記事における「エンドレスエイトについて」の解説
「エンドレスエイト」は大きな反響を呼び起こした。 ライターの坂本寛は、『現代視覚文化研究 Vol.4』において、「エンドレスエイト」の最終話には凄まじいカタルシスがあったと述べている。そのカタルシスは、「本来は不要な苦役」が終わったことに対するものであったといい、本当にループ放送が必要だったのかと疑問を呈している。冒頭の「何かおかしい」「キョンくんでんわ~」という毎回のやり取りは、 (III) のころからネット上でネタと化した。全ての視聴者の関心は、最後の数分間だけに集まるようになった。(VI) のころから、キョンの感じるデジャヴの演出は深刻度を増し、視聴者もまた彼らと同じ気持ちを共有していった。坂本は、視聴者を強制的に感情移入させるという点では、その試みは成功しただろうと書いている。坂本は、これはニーチェの「永劫回帰」のアニメ版のような、極めて実験的な作品であると述べ、そのようなものを一般視聴者に強いた姿勢はエンターテインメント性を欠いていたと難じている。 ライターの井中カエルによれば、放送当時は何回目でループする物語が終わるのかが分からず不満の声が挙がり、今でも賛否は分かれていると語る。その一方で井中は「ほぼ同じ脚本でありながらも、作画などを一切使い回しにすることがなく、絵コンテや演出が変わることで、同じ話でありながらもキャラクターや作品の印象がどのように変わるのかを研究するのも面白い」と語っている。 美術評論家の暮沢剛巳は「エンドレスエイト」各回の細部の違いにはさほど興味はなかったとしつつ、全体の時間と記憶の構造を興味深く感じたと語っている。ただひとりループ前の記憶を保持する長門は、他の面々の日常に積極的にかかわることなく、観察と記憶を黙々と続ける。暮沢は、このような長門の造形は視聴者に「彼女だけは別の時間を生きているのではないか」と実感させると述べた上で、ストア派における二つの時間概念のうち、キョンたちを「クロノス」に、長門を「アイオーン」になぞらえている。
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