エレファント島残留隊の救援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/17 13:43 UTC 版)
「フランク・ワースリー」の記事における「エレファント島残留隊の救援」の解説
マクニッシュたちがストロムネス湾に連れて来られてから3日後、シャクルトン、クリーン、ワースリー、および捕鯨基地の志願者たちが、傭船でエレファント島に向けて出港した。彼らは島から60マイル (100 km) 以内まで近づいたが、氷のためにそれ以上南に進めなかった。氷を割って進めないと判断した彼らは、より適切な船を得るためにフォークランド諸島に行った。このときまでに遠征隊の運命に関する情報がイギリスに届いていた。善意や支援のメッセージは届いていたものの、フォークランド諸島で見つけたイギリス船は、ロバート・ファルコン・スコットが昔使った遠征船RRSディスカバリーだけだったが、それは10月まで使えなかった。戦争のために他の有効な船は使えない状態になっていた。 シャクルトンにとって10月まで待つのは受け入れられないことであり、エレファント島に残されている隊員のことを思って他の船の探索を続けた。イギリス外務省はウルグアイ、チリ、アルゼンチン政府を説得し、適当な船舶を提供するようにした。ウルグアイが小さな測量船で応じ、これがエレファント島を視認できる所まで行ったが、これも帰ってくるしかなかった。7月12日に出発したアルゼンチンの船は3週間の悪天候の中で失敗した。チリが「イェルチョ号」を提供し、この鋼製蒸気船でシャクルトン、ワースリー、クリーンが乗組員と共に8月25日に出発した。それまで3回の試みとは対照的に、気象が味方し、8月30日にはエレファント島に到着し、そこに残してきた22人の隊員全員が生きていることを発見した。1時間の間に全員を救出し、氷に捉われないためにイェルチョ号は即座にプンタ・アレーナスに向けて出発した。プンタ・アレーナスでは大ファンファーレによって歓迎された。ワースリーは後に「我々がボートの旅で出てから4か月も過酷な環境で暮らしていた22人のことを私は常にすまないと思っていた、そして4度目の救出の試みは彼らを喜ばしく救出して終わった」と記した。 ワースリーがキングホーコン湾からマクニッシュ達を引き取りに行った間に、シャクルトンはロス海支隊の運命について助言を受けていた。ロス海支隊はシャクルトンが南極大陸を横断するルートに補給物資を置きに行っていた。10人の陸上部隊がハットポイントに基地を作り、その遠征船でシャクルトンが所有するSYオーロラはケープ・エバンスで越冬していた。1915年5月、オーロラを係留していた索が切れて、氷に捉われたまま流された。オーロラは損傷も受けながら6か月間氷に閉ざされたまま漂流し、その後に氷を破って自由になった。その船長ジョセフ・ステンハウスは1916年3月にニュージーランドまで航行することができた。ハットポイントに残された陸上部隊については2年間近くも情報が入らないままになった。シャクルトンはエレファント島から救出した隊員とアルゼンチンに移動した後、ワースリーと共にニュージーランドに向かった。そこからはロス海支隊を救出に南に向かってくれる船を見つける考えだった。 シャクルトンはロス海支隊の陸上部隊を救出するときにワースリーの能力を生かせると考えたので彼を連れて行った。しかし1916年12月にニュージーランドに到着した後、船を確保できないことが分かった。彼らはシャクルトンを船長としてオーロラを使うことを予測していた。しかし、それまでの間に、オーストラリア、ニュージーランドとイギリスの政府が救援のための資金を出すことで合意しており、シャクルトンが嫌いなオーストラリアの探検家ダグラス・モーソンの影響力もあり、オーストラリア政府が独自の船長を指名していた。シャクルトンは長い交渉の後で、定員外士官としてオーロラに乗船して南極に向かった。ワースリーは後に残されたが、イギリスまでの船賃を払ってもらったことで宥められた。ロス海支隊の生き残っていた7人が救援された。ワースリーはこの遠征に参加したことで、後に極圏メダルを授けられた。
※この「エレファント島残留隊の救援」の解説は、「フランク・ワースリー」の解説の一部です。
「エレファント島残留隊の救援」を含む「フランク・ワースリー」の記事については、「フランク・ワースリー」の概要を参照ください。
- エレファント島残留隊の救援のページへのリンク