エルトゥールル号海難事故編とは? わかりやすく解説

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エルトゥールル号海難事故編

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:45 UTC 版)

海難1890」の記事における「エルトゥールル号海難事故編」の解説

明治22年1889年7月トルコ帝国大日本帝国への親善使節団を派遣することになり、ムスタファ機関大尉600名の軍人エルトゥールル号乗り込み出航した老朽化の進むエルトゥールル号での外洋航海には不安の声もあったが、エルトゥールル号明治23年1890年6月無事に日本到着し使節団明治天皇への謁見果たした。しかし、艦内コレラ感染した乗組員出たため帰国延期余儀なくされる艦内では士気低下を防ぐため、甲板レスリング催し、そこでムスタファ機関室のベキル兵曹友情を結ぶ。 明治23年1890年9月15日エルトゥールル号横浜港出航し帰国することになった。しかし、折りしも日本には台風到来しており、翌16日夜、エルトゥールル号紀伊大島沖で座礁してしまう。座礁影響機関室海水流れ込み水蒸気爆発の危険が高まり、ベキルはムスタファ乗組員に退艦を促すように伝える。ムスタファ機関室を後にし甲板に向かうが、間もなく機関室はベキルたちを巻き込み爆発起こしエルトゥールル号沈没する。同じ頃、爆発音聞いた紀伊大島樫野村民たちが岸壁に向かうと、そこにはエルトゥールル号乗組員遺体打ち上げられていた。村民たちは台風の中を総出救助に当たり、医師田村元貞は助手ハルと共に負傷者の手当て奔走する翌日目を覚ましたムスタファは、ベキルや提督のオスマン・パシャ以下500名以上の死者出たことを知り生き残ってしまった罪悪感苛まれ生存した乗組員たちに怒りぶつけてしまう。そんなムスタファ見た田村は、ハルムスタファ世話任せる。十数日後、日本の要請受けたドイツ軍艦が樫野到着し生存者神戸搬送する村民たちは回復した乗組員との別れ惜しみ乗組員たちは敬礼を以て村民たちの誠意応えたムスタファ遺留品回収のため樫野に残ることになったが、保管場所から遺留品なくなっていることに気付く。ムスタファ村民金目当て盗んだ思い村長佐藤抗議するが、田村案内された場所に向かうと、そこでは村民たちが血塗れになった遺留品洗って血を落としていた。田村は「血塗れのまま遺族手渡した遺族がどう思うか」と問い掛け、さらに、村民たちが自分たちの生活を投げ打って乗組員たちの救助遺留品回収をしていることを告げる。村民たちの気持ち知ったムスタファは、村民たちへの感謝の念を抱くようになる数年後遺留品回収終えたムスタファ帰国することになった田村ムスタファに「真心忘れないで欲しい」と告げ別れ挨拶を交わす

※この「エルトゥールル号海難事故編」の解説は、「海難1890」の解説の一部です。
「エルトゥールル号海難事故編」を含む「海難1890」の記事については、「海難1890」の概要を参照ください。

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