ウェスト・サイド・アンド・ヨンカーズ・パテント鉄道
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「IRT9番街線」の記事における「ウェスト・サイド・アンド・ヨンカーズ・パテント鉄道」の解説
1866年4月20日、ウェスト・サイド・アンド・ヨンカーズ・パテント鉄道 (West Side and Yonkers Patent Railway Company) がチャールズ・T・ハーヴェイによって設立され、グリニッジ・ストリートおよび9番街に沿ってバッテリー・プレイスから30丁目へ至る鉄道路線の建設許可を受けた。会社はマンハッタン区南端からウェストチェスター郡ヨンカーズへ向かって25マイル(40キロメートル)の高架路線を建設する予定であり100,000ドルの募入資本金でチャーターされていた。 路線の建設は1867年7月1日より始まった。最初の区画は1867年10月7日に完成し、同年12月に試験が行われた。この僅か0.5マイル(0.8キロメートル)の線路は"1本足の鉄道" (one-legged railroad) と呼ばれていた。これは路線が単線で通りの上を通っていたことからそう呼ばれた。車両を動かすケーブルは線路の間に通され、エンジンによって動かされていた。車両は3両が完成しており、特許権も取得していた。 路線は1868年7月3日に開業した。"実験" (experiment) を承認した州長官は実験は成功とし、ブロンクス区スピュトン・ダイビルまでの路線建設を認可した。その後社名はウェスト・サイド・アンド・ヨンカーズ・パテント高架鉄道 (West Side and Yonkers Patent Elevated Railway Company) に変更された。この時点での路線南端はデイ・ストリート、北端は29丁目であった。ケーブルは路線に隣接する建物の地下にある機械によって動かされていた。このケーブルは長さ1マイル(1.6キロメートル)の物を複数使用しており、ケーブルで車両を押し引きするのでは無くケーブルを循環させることで上に乗った車両を動かしていた。このため路線全体のケーブルが1つに繋がっているわけでは無かった。ケーブルは車両が上に来ると駆動を開始し、次のケーブルへ車両が移動すると停止した。なお、サンフランシスコ・ケーブルカーのように運転士の判断でケーブルと車両を接続・切り離しが行える構造ではなくツメによって半永久的に固定する構造になっていたため、ケーブルとケーブルの境目においては停止状態から駆動を始めたケーブルに車両が急激に引っ張られる状態になり大きな衝撃が発生していた。 しかし、路線には継続的な問題があった。ケーブルを車両に固定させるメカニズムは完璧ではなく、ケーブルの維持も困難であった。遂に1870年11月15日の競売によって売りに出され数ヵ月間運行が休止され、資産は960ドル(現在のレートでは約15,000ドル)で買い取られた。購入者はウェストサイド・パテンテッド高架鉄道 (Westside Patented Elevated Railway Company) として路線の再編を行った。 1871年2月9日、交通委員会は高架鉄道に対し今までの鋼索鉄道の設備を全て廃止し蒸気機関車による運行に変更する計画を承認した。既存の線路設備の修理や改修が行われた後、1871年4月20日に蒸気機関車による列車の運行が開始された。1871年の夏、会社は3つの抵当に入れられた。そして鉄道資産の再編成のために債券保有者によって受託者が任命された。1872年に資産は新しく設立されたニューヨーク高架鉄道 (New York Elevated Railroad Company) によってオークションで購入された。これより世界初の成功した高架鉄道の運行が開始された。蒸気機関車での運行は1903年に全線電化されるまで続けられていた。
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