ウィスキー・リング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 03:37 UTC 版)
「ウイスキー汚職事件」の記事における「ウィスキー・リング」の解説
1875年のウィスキー汚職事件は、グラント政権を襲った最悪にして最も有名なスキャンダルであり、これを暴いたのは、財務長官ベンジャミン・ブリストウと、ジャーナリストのマイロン・コロニー (Myron Colony) であった。中西部では、リンカーン大統領の頃からウイスキーの蒸留業者たちの課税逃れが横行していた。ウイスキーの蒸留業者たちは、財務省の職員に賄賂を贈り、収賄側はその見返りとして税逃れを見過ごし、その金額は年間200万ドルにも上るものと見られていた。収賄側の職員たちは、1ガロンあたり70セントと定められていた税金を収納せず、不法に得られた差分を蒸留業者たちと山分けしていた。リングの元締めたちは、蒸留係、精溜係、計測係、在庫管理係、内国歳入庁職員、財務省職員などを、抱き込んだり、強要したり、恐喝したりしながら、全体の動きに巻き込んでいった。 1875年1月26日、ブリストウはグラント大統領の指示も受けた上で、2月15日に各地の様々な現場で一斉摘発を行うことを内国歳入庁の職員たちに命じた。この命令は、腐敗した職員には知らされず、彼らの悪行は捜査者たちによって明るみにされるはずであった。その後、グラントは、この命令を無効にしたが、それは、事前に期日を予告することが、リングの元締めたちに証拠隠滅の機会を与え、事態が危うくなりかねないという判断からであった。ブリストウ長官の命令を、グラントが取消したことは、後に、グラント自身が捜査に介入したのだという噂を生むことになった。もちろん、監督者を移動させることは、リングに混乱を生じさせることになったであろうが、リング内部の動きの証拠を掴み、加害者たちを告訴するためには、文書など確たる証拠が必要だった。ブリストウは、臆することなく調査を続け、マイロン・コロニーらスパイを送り込んで、ウイスキーの出荷状況や製造に関する情報を集め、リングの秘密を暴いた。 1875年5月13日、グラントの承認を受けて、ブリストウはリングへの強烈な摘発を実施し、蒸留施設を差し押さえ、何百人もの逮捕者を出した。ウイスキー・リングは壊滅した。ブリストウは司法長官エドワーズ・ピアポントと合衆国財務省事務弁護官(英語版)ブルフォード・ウィルソン(英語版)の協力を得て、数多くのリングのメンバーを、裁判にかけた。ブリストウは、リングの活動がミズーリ州、イリノイ州、ウィスコンシン州にもあったという情報を握っていた。ミズーリ州の内国歳入庁職員ジョン・A・ジョイス (John A. Joyce) と、グラント大統領が任命した2人の役職者、内国歳入庁監督 (Supervisor of Internal Revenue) のジョン・マクドナルド将軍 (General John McDonald) と、大統領の私的秘書であったオーヴィル・E・バブコックが、最終的にウイスキー・リングの裁判に引き出されることになった。財務省事務弁護官ブルフォード・ウィルソンによれば、やはりグラントの私的秘書であったホレース・ポーター(英語版)も、ウイスキー・リングに関わっていたという。
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