インドの支援と反王室運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 15:06 UTC 版)
「シッキム国民会議派」の記事における「インドの支援と反王室運動」の解説
1970年頃から、パルデン・トンドゥプの反印やシッキム独立の路線はますます強化され、運動も更に激化することになった。ところがこれはネパール系住民にブティヤ・レプチャ系住民への恐怖を掻き立てるものでもあり、そして親王室派だったSSCもこの種の恐怖感を抱いた結果、ついに反王室へと回帰していく。1972年8月15日、SSCは同じネパール系のSJPと合併して、シッキム人民会議派(SJC)を結成、有望な反王室政党が出現することになった。しかしSJCは、インドこそがシッキムにコミュナリズムを持ち込んでシッキムの民主化を阻害したと批判するなど反印的な姿勢を示したため、パルデン・トンドゥプだけでなくインドも不快感を抱いた。そこでインド政府はパルデン・トンドゥプと交渉し、SJCの勢いを削ぐためと説得してカジ・レンドゥプ・ドルジの帰国・大赦を認めさせた。こうしてインドの力を借りてドルジは帰国し、SNCは体勢を立て直すことになった。 このような状況下で実施された1973年第5回参事院選挙(選挙議席18)では、コミュナル選挙制度の恩恵もあってSNPが11議席を獲得する圧勝を収めた。SNCとSJCは相討ちする形となり、それぞれ5議席、2議席しか獲得できなかった。この結果に衝撃を受けたSNCとSJCは、同年3月より「不正選挙」を主張して選挙のやり直しを求めるデモを首都ガントクで開催し、さらに両党による共同行動会議(Joint Action Council)を結成した。パルデン・トンドゥプはこれを無視、4月に首都ガントクのデモを武力鎮圧したところ、カジ・レンドゥプ・ドルジらSNC・SJC最高指導者はデモ参加者を見捨ててインディア・ハウス(インド駐在行政官の公邸)に逃げ込んだ。 ところがSNCやSJCの若手指導者たちは屈さずに地方で武装蜂起し、次々と人民政府を樹立していく。ついにパルデン・トンドゥプは事態を収拾しきれなくなり、インドに介入を依頼、最終的に5月8日にインド、パルデン・トンドゥプ、SNCなど政党の三者による新しいインド・シッキム協定が結ばれた。これによりシッキムはますます属国化することになる。協定締結直後にSNCとSJCは、参事院に代わり新たに創設されるシッキム立法議会(英語版)(選挙議席30)の選挙に向けて合併し、新たにシッキム会議派(SC)を結成した。
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