インターラーケン修道院時代
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「インターラーケン」の記事における「インターラーケン修道院時代」の解説
詳細は「インターラーケン修道院」を参照 インターラーケン修道院は、1133年に初めて歴史に現れる。1133年、神聖ローマ皇帝ロタール3世は、インターラーケン修道院を保護下に置いた。1247年までの間は、修道士とともに修道女も居住していた。13世紀に入ると、修道院の影響力はアーレ渓谷やギュルベ渓谷を含めた周辺地域に広がっていった。ついには12の教会を指導下に置き、多くの村落や農地を得て、宗教界では地域最大の土地持ちとなった。 13世紀から14世紀初頭にかけて、修道院はさらに発展し繁栄した。しかし1350年、修道院は衝突と抗争により、修道士と修道女の減少、そして負債の増大に見舞われる。1310年の文書によると、修道院には30人の司祭と20人の信徒、そして350人の女性がいたのに対し、1472年には修道院長、次長、9人の修道士、7人の修練士と27人の修道女となっていて、さらに修道院は借地人や近隣住民と多くの問題を抱えるようになっていた。1348年に、グリンデルヴァルトとヴィルダースヴィルは、ウンターヴァルデンと相互防衛の同盟を組んだ。ベルンはこれに対してベルナー・オーバーラントへ軍隊を派遣し、その結果ウンターヴァルデンと同盟軍が敗北した。1445年には邪悪同盟がインターラーケン近辺のオーバーラントで決起してベルンの徴兵と課税に対抗し、古チューリッヒ戦争へとつながっていった。 修道士や修道女は14世紀の間、ほとんどの修道規則を守れなくなっていった。1472年、修道士と修道女の間に暴力を伴う争いが起き、ローザンヌ司祭が二度も来訪して深刻な欠陥を指摘する事態に至った。修道院長は逮捕され、修道士の一部は異動されて他の修道院の者たちが代わりに入った。そして改革が行われたが、しかし修道女会は1484年に解散し、新しくベルンに開設されたセント・ヴィンセント修道院に財産が移管された。 スイスにおける宗教改革の最中の1528年、インターラーケン修道院は廃止され、世俗化された。修道士は処分金を受け取り、修道院の財産はベルンの管理官の管理下に入った。修道院の借地人たちは、税の廃止を求めて暴動を起こしたが、ベルン政府によって鎮圧された。 宗教改革の後、ベルン政府は修道院の所有していた土地からインターラーケン管理官区を創設した。修道院の建物の一部は区庁舎として使用され、その他の建物は貧困者のための病院とされた。1562年から1563年にかけて、修道院にある教会の聖歌隊席は穀物庫およびワインセラーにされた。1746年から1750年の間に、サミュエル・ティリアー長官のもと、修道院の西側の建物が取り壊されて、「新城」と呼ばれる建物が新たに建てられ、その後のインターラーケン地方の政庁となった。
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