インスリンの共同発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:38 UTC 版)
「チャールズ・ベスト (医学者)」の記事における「インスリンの共同発見」の解説
ベストは1915年にオンタリオ州トロントに移住し、トロント大学のユニバーシティカレッジで学士号取得に向けて勉強を始めた。1918年にカナダ陸軍に入隊し、第2カナダ戦車大隊に所属した。戦後、生理学と生化学の学位を取得した。 22歳のときトロント大学で医学生をしており、フレデリック・バンティングの助手を務め、糖尿病の有効な治療法につながった膵臓ホルモンであるインスリンの発見に貢献した。1921年の春、バンティングはトロントに行き、トロント大学の生理学教授であるJ.J.R. マクラウドを訪ね、犬から膵臓抽出物を分離するためにマクラウドの研究室を使うことはできないかと尋ねた。マクラウドは当初懐疑的であったが最終的に夏の休暇で研究室を離れる前に同意した。彼は研究室を離れスコットランドへ行く前にバンティングに実験用の10匹の犬と2人の医学生チャールズ・ベストとクラーク・ノーブル(Clark Noble)を助手として提供した。 バンティングに必要な助手は1人だけであったため、ベストとノーブルはどちらが最初にバンティングの助手を務めるかを決めるためにコイントスを行った。ベストが勝利し最初に助手を行うことになった。このコイントスでの敗北はノーブルにとって不運なものとなった。なぜならバンティングは夏の全期間ベストを助手とすることにし、最終的にベストはバンティングが受け取ったノーベル賞の賞金の半分を受け取りインスリンの発見の栄誉の一部をあずかることになったからである。もしノーブルがコイントスに勝利していたら、全く違う道を歩んでいたであろう。マクラウドは生理学の経験のないバンティングと助手のベストの研究を監督していた。12月、バンティングとベストが膵臓抽出物の精製とグルコース値のモニタリングに苦労していたとき、マクラウドは生化学者のジェームズ・コリップ(英語版)をチームに配属した。1922年1月、コリップがインスリンの精製に取り組んでいたとき、ベストとバンティングは14歳のレナード・トンプソン (Leonard Thompson) に膵臓抽出物を早まって投与し、重度のアレルギー反応を起こさせてしまった。最終的にコリップがより純粋で使用可能な形にインスリンを精製することに成功した。バンティング、ベスト、コリップはインスリンの特許を共有し、トロント大学に1ドルで売却した。 1923年、ノーベル賞委員会はベストとコリップを無視し、インスリンの発見によりバンティングとマクラウドにノーベル生理学・医学賞を授与した。バンティングはベストに賞金の半分を渡した。コリップの重要な貢献はマクラウドによるノーベル賞の講演で認められ、彼もまた賞金の半分をコリップに渡した。
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