イギリス海軍への入隊と退役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 02:48 UTC 版)
「強制徴募」の記事における「イギリス海軍への入隊と退役」の解説
18世紀半ばのイギリス海軍における平均的な水兵の労働環境・生活環境は、現代の規準から見れば厳しいものだが、イギリス商船での環境よりは(そしてしばしば陸上の貧乏暮らしよりも)ましなものだった(しかし賃金は商船より低かった)。新兵採用に関する主たる問題は、戦時においては急造する多くの船に乗せる兵員が不足する、という単純なことであった。私掠船隊、海軍、そして商船隊の3者は、戦時には有能な(せめて「無能でない」)限られた人数の乗組員の取り合いを行っていた。そして3者いずれも人手不足であった。強制徴募はしばしば海軍での勤務を望まない者を水兵にしたが、その場合、彼らは商船との契約を終えることで商船主から未払い賃金の満額の支払を受けられることになっていた。 最大の強制徴募活動のうちの1つは、まだイギリスの植民地法の下にあったニューヨーク市で、1757年の春に起こった。3,000人のイギリス兵が、市の交通を遮断し、居酒屋やその他の溜まり場で根こそぎ強制徴募を行ったのである。「(ありとあらゆる業種の)商人と黒人」も800人が徴募され、そのうち400人は海軍に残った。なお、英語のshanghai(上海)にも「(船などに)無理矢理連れて行く」という意味がある。 先述の3者とも、高い脱走率に対策を講じる必要があった。18世紀の中ごろには、海軍艦船からの脱走率は志願兵も強制徴募兵もほとんど変わらず約25%であった。時間を追ってみると、脱走率は徴募直後は高く、数か月の航海を経ると大きく低下し、1年経つ頃にはたいてい無視できるほどになった。海軍の賃金は月単位か年単位の後払いだったからである。脱走は船の仲間を捨てることになるばかりでなく、すでに稼いだ多額の賃金をふいにすることを意味した。また艦に拿捕賞金が支払われていた場合、脱走してしまえば賞金の分け前にあずかることもできなくなるのである。 脱走防止策の一つとして、英国海軍では寄港地での上陸休暇が無く、乗組員は契約期間中は常時監禁同然だった。休暇がないことは乗組員の大きな不満のひとつであり、時には反乱の原因にもなった。艦長の中には許可を与える者もいたが、並外れた信頼関係がない限り少なからず脱走者は発生した。この慣習は強制徴募の無くなる19世紀初頭まで続いた。
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