イギリスのフランス海岸急襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 13:24 UTC 版)
「七年戦争」の記事における「イギリスのフランス海岸急襲」の解説
詳細は「ロシュフォール襲撃」および「サン・マロ襲撃」を参照 イギリスはロシュフォールへの急襲(水陸両用作戦とも)を計画、実行した。急襲の目的はロシュフォールへ侵掠およびシャラント川で商船を燃やすことにあった。ジョン・モードント(英語版)が陸軍を、エドワード・ホークが海軍を指揮した。1757年9月8日に出港したイギリスの遠征軍はエクス島(英語版)を占領したが、躊躇しているうちに時間だけが過ごし、ロシュフォール攻撃のチャンスを失った。遠征軍はエクス島を放棄、10月1日にイギリスへ戻った。 ロシュフォール襲撃は戦術的には失敗、戦略的には成功とも失敗ともとれるが、大ピットはこのような(現代の用語で言うと)非対称戦争と言える戦術に目的を見出し、襲撃を継続させた。次なる遠征軍では第3代マールバラ公爵とサックビル卿が陸軍を、リチャード・ハウが海軍と兵員輸送船を指揮した。遠征軍は1758年6月5日にカンカル湾に上陸、サン・マロに向かったが、占領に長期間の包囲が必要なことを知ると、代わりに近くのサン・セルヴァン(英語版)港を攻撃した。イギリス軍はそこで船を燃やし、私掠船と商船約80隻、および建造中の戦艦4隻が被害にあった。フランスの救援軍が近づいてくると、遠征軍は引き上げた。ル・アーヴル・ド・グラースへの襲撃も計画されたが取り消され、艦隊は続いてシェルブールに向かったものの、悪天候と補給の不足でシェルブールへの襲撃も諦め、遠征軍はフランス私掠船への攻撃およびフランス海岸における示威が成功したとして、イギリスへ戻った。 大ピットは今度はドイツへの派兵に乗り気になっていた。マールバラ公とサックビルは襲撃を無駄と考えたためドイツ派遣軍に役職を得て、さらなる襲撃には参加しなかった。代わりにすでに70代と高齢であったトマス・ブライ(英語版)が指揮官に任命され、リチャード・ハウが補助を務めた。今回の襲撃はシェルブール襲撃で幸先のいいスタートを切った。艦隊の援護射撃の下、遠征軍は上陸を阻止しようとしたフランス軍を追い払ってシェルブールを占領、その要塞、ドックと船舶を破壊した。 遠征軍は撤収すると9月3日にブルターニュ地方のサン=リュネール(英語版)に上陸、サン・マロへ進軍した。しかし、この行動は無謀であった。まず、悪天候で陸軍と艦隊は別行動せざるをえなくなり、艦隊はより安全なサン=カス(英語版)に向かい、一方陸軍は歩いて行軍した。ブライの指揮する行動がもたもたしているうちにフランス軍1万がブレストから追いつき、慌てて撤収しようとしたイギリス陸軍に砲撃した。このサン=カスの戦いにおいて、デューリー率いるイギリス軍の後衛1,400人がフランス軍を足止めして、残りの軍勢の撤収を成功させたが、その犠牲は大きかった。デューリー自身を含む750人が犠牲になり、残りは捕虜にされた。
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