イェーガン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/16 13:25 UTC 版)
1831年12月、ヌンガー族のイェーガンは友人が殺害された復讐のため、白人への攻撃を幾度も主導した。1832年10月イェーガンと仲間2人が逮捕され、死刑判決を受けた。この時、リオンは嘆願を述べ、イェーガンたちはウィリアム・テルやウィリアム・ウォレスのように彼らの国のために戦ったのだと主張した。そして、一般的な犯罪者ではなく戦争時の捕虜とみなし取り扱われるべきだと意見した。これを受けて行政官ジェームス・スターリン (en) 卿は処刑の中止を決め、イェーガンらをカーナック島 (en) への追放と処した。 リオンは許可を得て1832年10月8日にカーナック島に渡り、イェーガンたちと面会した。リオンは一ヶ月強の滞在期間中、彼らの言語を学び取ることに多くの時間を費やした。これを通して、リガンはたくさんの土地の名称を覚え、ヌンガーの文化や伝統についての知識を得た。リオンはこれを、1833年3月から『ウエスト・オーストラリアン(The West Australian)』『パース・ガゼット(The Perth Gazette)』両紙に「A Glance at the Manners and Language of Aboriginal Inhabitants of Western Australia」(「西オーストラリアにおけるアボリジニ先住民族の風習と言語についての一考察」の意)と題して連載した。これは、西オーストラリアで初めて出版された先住民族についての情報であり、人類学にとって貴重な出典ともなった。 11月15日、イェーガンと仲間は放置されたディンギーを盗み、秘かにカーナック島を脱出して本土のウッドマン岬 (en) に逃れた。リオンは、あと3週間彼らと時間を共にしていれば、先住民族と移民者との間で平和的な条約を締結することも可能だったと行政官に報告した。そして、アボリジニに対して、討伐的な行動よりも話し合う態度を示すよう行政に働きかけた。このような武力に訴えることに反対するリオンの言動は、政府そして移住者たちからも不興を買った。今や彼は、本来部族を纏め交渉の代表たるリーダーを持ち得ないアボリジニの文化を理解していなかったと考えられている。 1833年6月、先住民に処罰をあたえるべきと求める数多い声に対応して、ギルドフォード (en) で会議が持たれた。リオンもこの会議に出席し、後に「植民政策下のオーストラリアで最も人道主義に溢れたもののひとつと評される」スピーチを述べた。(ヘンリー・レイノルズ、1998年)
※この「イェーガン事件」の解説は、「ロバート・リオン」の解説の一部です。
「イェーガン事件」を含む「ロバート・リオン」の記事については、「ロバート・リオン」の概要を参照ください。
- イェーガン事件のページへのリンク