イェカチェリーナの親族の運命
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「イェカチェリーナ・スワニーゼ」の記事における「イェカチェリーナの親族の運命」の解説
息子のヤーコフは、その後14年間、スワニーゼ家で育てられた。ヤーコフは1921年にモスクワで父スターリンと一緒に暮らし始めるが、ロシア語が分からず、グルジア語しか話せないヤーコフは、父スターリンから邪険に扱われ、辛い生活となった。スワニーゼ家の他の親族たちもモスクワに移住し、スターリンは時折彼らの元を訪れていた。 イェカチェリーナの弟、アレクサンドルは、トビリシのオペラ歌手、マリーア・アニスィモヴナ・カローナ(Мария Анисимовна Корона, 1889 - 1942)と結婚し、ソ連共産党内で出世していった。イェカチェリーナの妹、マリーヤもモスクワに移り住み、アヴェル・イェヌキージェ(А́вель Енуки́дзе)のもとで秘書として働いた。 大粛清(Большо́й терро́р)が猛威を振るう中での1937年、マリーヤはイェヌキージェに対する告発の一環として逮捕された。この年の10月、イェヌキージェはスパイ行為と反逆罪の容疑により、スターリンの命令で処刑された。1938年、スターリンは、アレクサンドルとその妻、マリーアの逮捕を命じた。スターリンはアレクサンドルに対し、「自分はドイツのスパイである」ことを認めるよう迫ったが、アレクサンドルはそれをきっぱりと拒否した。1941年8月20日、ラヴリェンチー・ベリヤ(Лаврентий Берия)の命令により、アレクサンドルは銃殺刑に処せられた。アレクサンドルの妻マリーア、妹マリーヤの2人は、NKVD特別協議(Осо́бое совеща́ние при НКВД СССР)の下した決定に基づき、1942年3月3日に銃殺刑に処せられた。 イェカチェリーナとスターリンの息子、ヤーコフは、1941年6月のバルバロッサ作戦に従軍し、戦闘の最前線に送られた。7月16日、スモレンスクの戦いでヤーコフは降伏し、ドイツ軍に捕縛された。スターリンは兵士たちに対して降伏を固く禁じており、敵に降伏して捕らえられるぐらいなら自ら死を選ぶべきであると考えており、降伏したヤーコフに対して酷く立腹した。 1943年2月のスターリングラード攻防戦の際、ドイツの陸軍元帥、フリードリッヒ・パウルス(Friedrich Paulus)が降伏すると、ドイツはソ連に対してヤーコフとパウルスとの交換を申し出るも、スターリンはこれを拒否した。スターリンは「どれほどの数の若者が収容所送りとなったか、考えてみろ」「ヤーコフをパウルスほどの人間と交換しようと考える者がどこにいるのかね?」と言い放ち、捕虜交換の打診を完全に拒絶した。ニコライ・トルストイ(Nikolai Tolstoy)によれば、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は自身の甥、レオ・ルドルフ・ラウバル(Leo Rudolf Raubal)とヤーコフを交換するという別の案も申し出たが、スターリンはこれも拒否したという。 1943年4月14日の夜、ヤーコフはザクセンハウゼンの収容所にて、突然中立地帯を横切って高圧電線に駆け寄った。ヤーコフは監視員に対して「撃て!」と叫んだ直後に高圧電線を両手で掴み、その衝撃でぶら下がったまま死亡した。剖検報告によれば、監視員が撃った弾丸は、ヤーコフの右耳から4cmのところで頭部に直撃し、頭蓋骨は骨折していたが、そうなる前にヤーコフは高圧電流の衝撃で絶命していた。 アレクサンドルとマリーアの間に生まれたイヴァン・スワニーゼ(Иван Сванидзе)は、スターリンの娘、スヴェトラーナと1957年に結婚するも、1959年に離婚を申請した。ソ連の法律では、離婚の布告の際には、新聞に自宅の住所を掲載することが義務付けられていた。
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