アルト・カルト、ノーサンブリア、マーシア
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「オエンガス1世 (ピクト王)」の記事における「アルト・カルト、ノーサンブリア、マーシア」の解説
740年、ピクト人とノーサンブリア王国の間で戦争が起きた。この時、ノーサンブリア王エズバートの隙をついてマーシア王エゼルバルドが侵攻し、おそらくヨークを焼き払った。ピクト・ノーサンブリア戦争が勃発した理由は定かではないが、おそらく元ノーサンブリア王エルズウルフ1世(英語版)の子エルウィンがエズバートの命により殺された事件が関係しているという説がある。エルズウルフ1世は705年から706年の内戦で敗れて北方に亡命しており、オエンガス1世かエゼルバルドがエルウィンをノーサンブリア王に据えようと企んでいた可能性があるのである。 ピクト人とアルト・カルト(ストラスクライド)との間では、744年と750年に戦争が起きたことが記録されている。後者はノーサンブリアのエズバートがアルト・カルトからカイル(英語版)を奪った時期である。750年のピクト人とブリトン人の戦闘は、それが起きたMocetauc (おそらくミルンゲイヴィ(英語版)に近いMugdockのこと)という地名で知られている。この戦闘はチュエズブル(英語版)率いるアルト・カルトの勝利に終わり、オエンガス1世の兄弟タロルガン・マック・ファーガスが戦死した。この敗北の後、アルスター年代記によれば「オエンガスの支配力の衰退」がみられた。これはおそらく、エオハズ・マック・エハダハの子アエダ・フィンズ(英語版)がダルリアダ全域に勢力を拡大し、オエンガス1世の宗主権を否定したことを指している。 ダルリアダとの戦争は簡明な記録が残されているのに対し、740年から750年のオエンガス1世、エズバート、エゼルバルドの関係については様々な解釈の余地がある。一説では、オエンガス1世とエゼルバルドは対エズバートで手を組み、そればかりか共同で全ブリテン島の支配者(ブレトワルダ)の地位を担おうとしていたという。つまり、ハンバー川を境としてオエンガス1世が北方諸国から貢納を集め、エゼルバルドが南方諸国から貢納を集めるという構図である。この見方はダラムのシメオンによる『イングランド諸王史』の混乱した記述に拠るところが大きい。近年では20世紀の歴史家フランク・ステントン(英語版)が、「共同支配」説は原典の文章ミスが原因であり、実際にはオエンガス1世とエゼルバルドの間にそのような協力関係はなかった、と主張しており、このステントンの見方が有力である。 756年、オエンガス1世はノーサンブリアのエズバートと共にアルト・カルトを攻撃した。この遠征を、ダラムのシメオンは次のように記録している。 主の顕現から756年、エズバート王の治世の18年目、ピクト人の王ウヌストが軍を率いてダンバートン(アルト・カルト)に至った。またそれゆえ、ブリトン人は8月の最初の日に要求を受け入れた。しかし同月の10日目の日に、彼がOuaniaからNiwanbirigへ率いていた軍勢はすべて滅び去った。 アルト・カルト王ドゥムナグゥアル3世(英語版)はピクト・ノーサンブリア連合軍に降伏し、両国に臣従礼を取った。以後アルト・カルト(ストラスクライド)王国は、870年ごろにヴァイキングの侵攻を受けるまでピクト王国もしくはピクト王国とノーサンブリア王国の支配下に置かれることになる。Ouaniaがガヴァン(英語版)を指すことはほぼ確定しているが、Newanbirigの位置はそれほど定かではない。Newburghという地名は数多く存在し、そのなかでおそらくヘクサム(英語版)に近いNewburgh-on-Tyneである可能性が高い。また別の解釈では、Newanbirigをマーシア王国領だったリッチフィールドに近いニューバラ(英語版)に比定する場合もある。この場合、オエンガス1世とエズバートがマーシアのエゼルバルドに敗れたという構図になり、セント・アンドルーズの創建伝説で伝えられている「ファーガスの子オエンガスが、マーシアに敗れた後に自分の命を聖アンデレに救われたことを感謝して教会をたてた」という物語と整合する。
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