アラブ・バアス:1940年−1947年
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「ザキー・アル=アルスーズィー」の記事における「アラブ・バアス:1940年−1947年」の解説
アルスーズィーがアラブ・バアスを結成したのと時を同じくして、アフラクとビータールらがアラブ復興運動を結成した。アフラクやビータールらが政党組織に力を入れる一方で、アルスーズィーは1959年まで教師として働き続けた。アルスーズィーの党にはメンバーはあまり多くなく、書物を読み、執筆・翻訳などをすることに時間を使っていた。1941年、アルスーズィーはダマスカスから追放され、3名のメンバーが逮捕され、残りはダマスカスを脱出した。翌年、アルスーズィーは仲間と共に党の再建を試みたが、失敗に終わった。仲間の一人はアルスーズィーが亡命生活中に被害妄想気味になっていたと証言していた。1944年、メンバーの多くは脱退し、アフラクらのアラブ・バアス運動(1943年に改称した旧アラブ復興運動)に合流した。アルスーズィーとアフラクの関係は最悪なものとなった。アルスーズィーは、党名を奪ったとしてアフラクを非難した。 同時に、アルスーズィーの政治への興味は薄れていき、言語学の研究に時間を費やすようになった。1943年、研究はアラビア語の語根や弁別的素性を分析した『アラブの天賦の才はその言語にある』の出版で頂点を極めた。しかし一方で、アルスーズィーは徐々に精神的に不安定になっていった。彼を知る複数の人物が、アルスーズィーが社会や友人との接触を避けるようになったと記している。 イラクでラシード・アリー・アル=ガイラーニーのクーデターが起こって以降、アルスーズィーの人気は下がっていった。イギリス・イラク戦争において、アフラクとビータールはイラク救援シリア委員会を設立し、ガイラニ率いるイラク政府を支援した一方、アルスーズィーはガイラニの政策は失敗するという理由で関わることに反対していた。アルスーズィーを支持する者もいたが、多くはアフラクの理想主義に魅力を感じた。また、アルスーズィーが人間不信になっていたことも人気低下の原因であった。 1947年、アフラクやビータールらのアラブ・バアス運動はアラブ・バアスと合併した。アラブ・バアス側の交渉役はワヒーブ・アル= ガニームとジャラール・アッ=サイイドであり、アルスーズィーではなかった。唯一の課題は社会主義的な政策をどれほど取り入れるかであった。二つのグループは合意に達し、バアス運動は急進的になり、さらに左傾化していった。アルスーズィーはバアス党設立総会には出席せず、党員資格も与えられなかった。
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