アメリカ大使館としてのドーチェスター・ハウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 08:28 UTC 版)
「ドーチェスター・ハウス」の記事における「アメリカ大使館としてのドーチェスター・ハウス」の解説
ロバート・ホルフォードは1892年に亡くなり、ドーチェスター・ハウスは息子のジョージが承継した。彼はこの邸宅をあまり使わなかったので、1905年にアメリカ大使のホワイトロー・リード (英語版) に貸した。リードは職務の一環として邸宅で贅沢な催事を行い、その様子は数多くの新聞に掲載された。特に注目すべきは独立記念日の祝賀会で、ニューヨーク・タイムズ紙は1907年ドーチェスター・ハウスでリード夫妻が開催した催事について、次のように掲載している。「今日の午後、あまりに多くのアメリカ人が、リード大使夫妻主催の独立記念日祝賀会に参加したため、ドーチェスター・ハウス周辺のいくつかの交差点が2時間にわたって通行止めとなった。出席者は原則として招待されたアメリカ人だけだったが、ホワイトハウスでの祝賀会並みの混雑ぶりだった。北側のテラスには長いテントが張られ、窓の一部を取り外して真紅のカーペット敷きの仮設の階段が設置された。招待客は約4,000名に上った 。」 同じ年にリードは、マーク・トウェインのための祝賀会を主催した。オックスフォード大学学長はトウェインに文学博士号を名誉学位として授与したいと考え、その取次ぎをリードに頼んだ。トウェインは承諾し、オックスフォードでの授与式の数日前に、彼のための晩餐会がドーチェスター・ハウスで開催された。リードはトウェインに会わせようと、約40人の作家や芸術家を招待し、その中にはアーサー・コナン・ドイルがいた :381 。 1908年、リードの娘ジーンが結婚し、ドーチェスター・ハウスで披露宴が催された。エドワード7世とアレクサンドラ王妃も出席し、この結婚は大いに大衆の耳目を集めて、いくつもの新聞に掲載された 。 1910年、エドワード7世が死去し、葬儀に参列するためにセオドア・ルーズベルト元大統領がロンドンを訪れて、ドーチェスター・ハウスに3週間滞在した :416 。ニューヨークタイムズ紙は、その期間ルーズベルトに会うために海外から訪れた、高官達の数多くのドーチェスター・ハウス来訪を報じている 。 1912年、ホワイトロー・リードが死去し、ドーチェスター・ハウスはアメリカ大使館として使われなくなった。ホルフォードは時々パーティーを開催したり、ランのコレクションを収容するためにそこを使った。
※この「アメリカ大使館としてのドーチェスター・ハウス」の解説は、「ドーチェスター・ハウス」の解説の一部です。
「アメリカ大使館としてのドーチェスター・ハウス」を含む「ドーチェスター・ハウス」の記事については、「ドーチェスター・ハウス」の概要を参照ください。
- アメリカ大使館としてのドーチェスター・ハウスのページへのリンク