アメリカ合衆国における受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:37 UTC 版)
「エドガー・アラン・ポー」の記事における「アメリカ合衆国における受容」の解説
本国アメリカ合衆国においてはポーの作品は長い間正当な評価を受けておらず、一部の愛読者からの賞賛をのぞくとその文学的地位は低く留まっていた。ポーの作品がアメリカで受け入れられなかったのは、ひとつにはアメリカ文学がもともと清教徒の多い北部ニューイングランドで起こったものであり、文学界で指導的地位を持っていたのが北部の批評家や出版社だったため、南部の文学が軽んじられていたという理由による。英米では当時、作品の善し悪しの判断は倫理性、道徳性や啓蒙性の有無に基づいて行なわれており、そのため耽美的、退廃的な傾向のあるポーの作品は高い評価を受けることができなかった。 ポーの評価に関するこの傾向はさらにルーファス・ウィルモット・グリスウォルドによって書かれたポーの「回想録(メモワール)」によって強められた。グリズウォールドは1842年に自著を批判されて以来ポーに恨みを抱いており、ポーの死後はどういう方法でか彼の遺著管理人になったうえ、ポーの人格を貶めるような回想録を記し、これをポーの作品集にも収録したのである。この中でポーはアルコールと麻薬に溺れた下劣な人間として描かれており、ポーの書簡をその証拠として用いていたが、後の研究ではこの書簡はグリズウォールドの偽造であることがわかっており、少なくともポーは麻薬中毒者ではなかったことも明らかになっている。グリズウォールドの回想録はポーをよく知っていたものからは批判されたが、長い間ほかにポーのまとまった伝記的記述がなかったことや、読者がそのような「悪に染まった」作者像を求めたこともあり、グリズウォールドが偽造したポーの人物像が広く流布する結果となってしまった。 ポーを「山師」charlatanと見る人もいれば、ロバート・カーターと共に文学雑誌「ザ・パイオニア」を創刊したジェイムズ・ラッセル・ローウェルのように、ポーを5分の3は「天才」geniusで、5分の2は「まったくのまやかし」sheer fudgeといい、イギリスの詩人アルフレッド・テニソンは「もっとも独創的なアメリカの天才」the most originalo American geniusと絶賛した。 アメリカ合衆国でポーの再評価が行なわれるのは、後述するフランス、イギリスでの高い評価が伝わった死後約1世紀を経てからであり、以後ようやく彼を国民的作家の位置に押し上げようとする動きが見られるようになった。アメリカ合衆国においてポーの影響が見られる後世の文学者としては、詩人ロバート・フロスト、作家ではハワード・フィリップス・ラヴクラフト、レイ・ブラッドベリ、ウィリアム・フォークナー、ウラジミール・ナボコフ、トルーマン・カポーティ、ジョン・バース、スティーヴン・キング、ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、マーク・Z・ダニエレブスキーなどがいる。1954年からはアメリカ探偵作家クラブによってポーの名を冠したエドガー賞が設立され、毎年優れた推理作家の顕彰を行なっている。
※この「アメリカ合衆国における受容」の解説は、「エドガー・アラン・ポー」の解説の一部です。
「アメリカ合衆国における受容」を含む「エドガー・アラン・ポー」の記事については、「エドガー・アラン・ポー」の概要を参照ください。
- アメリカ合衆国における受容のページへのリンク