アボガドロの仮説の検証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:45 UTC 版)
「アボガドロの法則」の記事における「アボガドロの仮説の検証」の解説
ほとんどの化学者には省みられなかったアボガドロの説ではあるが、少数の化学者がこれに興味をもち検証を行なおうとしていた。 ジャン・バティスト・アンドレ・デュマは常温で気体でない物質の蒸気密度を測定する方法を開発した。しかし、いくつかの物質では高温で解離反応が起こってしまい、アボガドロの仮説を否定するような結果も得られてしまった。この問題が解決されるのはずっと後の1865年にアドルフ・ヴュルツにより気体の解離反応が発見されてからのことである。 置換反応の発見によって電気化学二元論が揺らぎ始めたころ、ジェラールは1839年にすべての物質が2つの根が接合したものであるという残余の理論を提唱した。残余の理論を採用すると、ベルセリウスの原子量・分子量決定法に問題があることが分かった。ベルセリウスは金属 M の酸化物の組成式を MO と考えていたため、1価の金属の原子量がすべて真の値の2倍になっていた。そしてカルボン酸の分子量を銀塩の組成から決定していたため、カルボン酸の分子量も真の値の2倍になってしまっていた。ここでジェラールはカルボン酸の塩素置換反応に残余の理論を適用すると、塩化水素の分子量も従来の2倍になってしまうということに気づいた。ジェラールは金属 M の酸化物の組成式は M2O であるとすれば一貫性が得られ、またアボガドロの仮説が成立することを示した。しかし、ジェラールはこの分子量の改訂には消極的であり、むしろ一貫性を持てない分子量の概念を放棄したいと考えた。 この改訂の意義を積極的に主張したのはジェラールの友人オーギュスト・ローランであった。ローランは残余の理論からの帰結として水素や酸素、塩素などの単体がアボガドロの仮説どおり二原子分子であることを主張した。ジェラールやローランの主張はアレクサンダー・ウィリアムソンやウィリアム・オドリング(英語版)、アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンらによって採用された。しかし、多くの化学者は未だに自分自身の独自の分子式を使い続けていた。 1858年にスタニズラオ・カニッツァーロはデュロン・プティの法則を利用して無機化合物の組成式が決定できることを示した。そしてアルカリ土類金属の酸化物の組成式がジェラールの提唱した M2O ではなく MO であることを示し、正しい原子量を提案した。またアボガドロの仮説に基づく分子量決定法も合わせて示した。そして、これらの方法を組み合わせることで、すべての元素の原子量を一つの値に決定できることを示したのである。 フリードリヒ・ケクレを初めとする化学者たちは、分子式や原子量についての見解を統一し混乱状態を解消するため、1860年にカールスルーエ国際会議を開催した。カニッツァーロは自身の論文をパンフレットとして参加者に配布した。会議の場では統一見解は得られなかったものの、多くの化学者にアボガドロの仮説の重要性が認識され、原子量や分子式の混乱は徐々に解消に向かった。こうして正しい原子量が用いられるようになったことが、周期律の発見につながった。
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