アフリカでの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「アフリカでの死」の解説
ガーナ大統領クワメ・ンクルマは1957年の独立記念式典にデュボイスを招待したが、彼は1951年にアメリカ政府にパスポートを没収されたため、この式典に参加できなかった。1960年のいわゆるアフリカの年までにデュボイスはパスポートを取り戻しており、大西洋を渡ってガーナ共和国の建国を祝うことができるようになった。デュボイスは1960年代の後半にアフリカに戻り、ナイジェリア初のアフリカ人総督ンナムディ・アジキウェの就任式に参加した。 1960年のガーナ訪問中に、デュボイスはンクルマとアフリカ人ディアスポラ(英語版)(African diaspora)の新たな百科事典である『アフリカ百科事典(英語版)(エンサイクロペディア・アフリカーナ)』の作成について話し合った。1961年、ガーナはデュボイスにアフリカ百科事典を支援するための基金を確保したことをデュボイスに通達し、プロジェクト管理を行うべくガーナに招待した。1961年10月、彼が93歳の時、デュボイス夫妻はガーナに向かい、住処を得て『アフリカ百科事典』の編纂を開始した。 しばしば、デュボイスがこの時アメリカ市民権を放棄したと語られ、また彼自身その意図を表明してはいたが、実際に市民権を放棄することはなかった。ガーナでの2年間の間にデュボイスの健康状態は悪化し、1963年8月27日、首都アクラにて95歳で死去した。翌日、ワシントン大行進で講演者ロイ・ウィルキンス(英語版)は数十万人の行進参加者で黙祷によってデュボイスの栄誉を称えるよう求めた。デュボイスが生涯をかけて運動を行ってきた多くの改革の実現である1964年公民権法は、彼の死からほぼ1年後に制定された。 ンクルマの要請によって1963年8月29日から30日にかけて、デュボイスの国葬が執り行われ、クリスチャンボーグ城(現:オス城〈Osu Castle〉)の西壁そばに埋葬され、その後アクラの政府所在地(英語版)に移された。1985年にデュボイスを称える別の式典が執り行われ、デュボイスの遺体は、1977年に死去した妻シャーリー・グラハム・デュボイスの遺灰と共にアクラにあった夫妻の元住居に再埋葬された。この家はW. E. B. Du Bois Memorial Centre for Pan African Cultureの一部となっている(デュボイスの最初の妻ニナとその息子バーグハード(Burghardt)、そして1961年に死亡した娘ヨランダ(Yolande)はデュボイスの故郷マサチューセッツ州グレート・バリントンの墓地に埋葬された。)
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