アデュー公演と新たな道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 15:09 UTC 版)
「バンジャマン・ペッシュ」の記事における「アデュー公演と新たな道」の解説
ペッシュはバレエダンサーとして踊る以外にも、プロデューサーとして優れた手腕を発揮している。世界各地からダンサーを集めた「エトワール・ガラ」の他にもパリ・オペラ座バレエ団のダンサーのみで組織したガラ公演「Love from Paris」を企画していずれも好評を得ていた。 「エトワール・ガラ」は彼のエトワール任命に先立って、2005年7月に第1回が開催されていた。ペッシュは「エトワール・ガラ」の座長格として、企画の段階から携わっていた。このガラ公演には2年半の準備期間が費やされ、ペッシュはその期間中に「自分の仕事を客観的に見ること」ができるようになったという。これは彼にとって有意義なことだった。後にペッシュは「エトワール・ガラ」について、自分がエトワールに任命されたのはこのガラをやったおかげだとして、「ぼくの人生においてもっとも素晴らしい出来事だったと思っています」と回顧していた。 エトワール任命後のペッシュは、クラシック・バレエやロマンティック・バレエの諸作品の他にローラン・プティの『クラヴィーゴ』、モーリス・ベジャールの『火の鳥』、ピエール・ラコット(フランス語版)の『パキータ』、アンジュラン・プレルジョカージュの『ル・パルク』などさまざまな作品を踊っていた。かねてからの希望だったというジョン・ノイマイヤーの『椿姫』も、そのレパートリーに加わった。 ペッシュは2016年2月20日に、アデュー公演(引退公演)を行った。この公演で、彼はエレオノーラ・アバニャートを相手役としてプレルジョカージュの『ル・パルク』を踊った。ペッシュによれば、腰を痛めたせいでアデュー公演の2年くらい前にはすでに「舞台から退いた」という感覚があったという。腰のせいでジャンプができなくても別の踊り方や表現を見つけることによって踊り続けることはできたが、舞台に立つ回数は減り、レパートリーや役柄も違ってきていた。そのためペッシュは、身体面において当時の彼に合った役柄を踊って楽しんでいた。 アデュー公演後は、当時のパリ・オペラ座バレエ団芸術監督バンジャマン・ミルピエ(英語版)のもとで副芸術監督の地位を2016年7月15日まで務めた。その後は、同じくパリ・オペラ座バレエ団のエトワールでローマ歌劇場バレエ団を率いているアバニャートの誘いに応じて、ローマ歌劇場バレエ団の副芸術監督として1年間の契約を結んだ。 アデュー公演後の2016年8月に開催された第5回「エトワール・ガラ」では、アデュー公演と同じく『ル・パルク』を踊るとともに東日本大震災後に「悲しみに寄り添いたい」として自ら振付を行った『スターバト・マーテル』(アントニオ・ヴィヴァルディ作曲)を披露した。ペッシュはパリ・オペラ座バレエ団での24年間を振り返って「全く悲しくない。42歳までキャリアを全うできてうれしかった」と総括し、「学んだことを伝えていきたい。日本との関係も強めたい」と語っていた。 ペッシュはアデュー公演より前に行われた三浦雅士との対談(2012年2月)で、今後のことについてコリオグラファーになるつもりはないとしながらも、将来はカンパニーの芸術監督になりたいとの希望を語っていた。「バンジャマン・ペッシュと仲間たち」のようなグループ公演は趣味ではないとして、「エトワール・ガラ」や「Love from Paris」のように素晴らしい人材を集めて舞台裏から組織したり、プログラムを考えたりしたいというのが彼の意図であった。彼自身の評価によればウィリアム・フォーサイスは最盛期を過ぎているし、ピナ・バウシュのスタイルももう終わりを迎えているとして「新しいコリオグラファーにチャンスを与えていきたい」と発言していた。 ペッシュは自らについて「人見知りしない性格で、人間が好きだし、彼らの話を聞くのも大好き」と述べている。パリ・オペラ座バレエ団はもとより、外の世界にも友人がたくさんいて、その中にはテレビやアート界の人々が多い。過去に出会った多くの人々の中で、プリセツカヤとルグリは彼をダンサーとして成長させてくれた恩人であった。ペッシュもグループ公演をプロデュースしていく過程において若いダンサーたちを抜擢してチャンスを与えるなど、かつてプリセツカヤとルグリが自分を育ててくれたときと同じ道を歩んでいるため、そこに「運命」を感じるという。
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