アッコン攻略とは? わかりやすく解説

アッコン攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:38 UTC 版)

アシュラフ・ハリール」の記事における「アッコン攻略」の解説

1291年4月5日に、父の悲願であるアッコンの包囲開始したハリールテンプル騎士団総長ギヨーム・ド・ボージューにあてた挑戦状にはキリスト教徒フランク人への敵意示されていた。ハリール自らが指揮するイスラームの軍は騎兵60000歩兵160000、投石器92投入対す十字軍兵数は3~40000、うち800騎士で14000が歩兵残り巡礼者動員された。 包囲から1週間小競り合い起きたけだったが、週末攻城車を組み立て城内兵士城壁にそびえる守備の要「呪われた塔」を攻撃し坑道掘って地下からの攻撃試みた5月4日キプロス王アンリ2世アッコン到着アンリ2世から講和使節派遣されると、攻撃一時止める会見アッコンの「特使の門」で行われたが、ハリール無条件降伏要求して交渉難航会見中に十字軍兵士独断放った投石交渉の場の近く着弾するに及んで交渉決裂した陥落直前にド・ボージューが戦死聖ヨハネ騎士団総長ジャン・ド・ヴィリエ重傷負った5月18日金曜日イスラーム軍はアッコン市内占領同日アンリ2世アッコンから脱出した5月28日テンプル騎士団員の立て籠もる騎士団本部占領アッコンを完全に陥落させた。包囲から攻略までの戦況は、戦争従軍したハマーアイユーブ朝王族アブ・アル=フィダによって、『人類史綱要(Tarikhu 'l-mukhtasar fi Akhbari 'l-bashar)』に記録されている。 アッコン陥落後もなお独立保っていたティルスシドンベイルートトルトーザ相次いで8月までにマムルーク朝降伏シリア十字軍国家全て滅亡した

※この「アッコン攻略」の解説は、「アシュラフ・ハリール」の解説の一部です。
「アッコン攻略」を含む「アシュラフ・ハリール」の記事については、「アシュラフ・ハリール」の概要を参照ください。

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