アッコ攻撃の口実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 03:05 UTC 版)
ムスリム側の文書イブン・フェラトの年代記によれば、あるアッコの裕福な若妻とムスリムの男との関係が夫に露見したという些細な事件があった。夫は友人たちを集め、その男女を殺した。その後同じ場所に他のムスリムが引き立てられてきて、暴徒化したキリスト教徒に虐殺されたのだという。十字軍国家は、カラーウーンがこの事件を開戦の口実とすることを恐れ、教皇に援軍を求めた。ミショーによると、ヴェネツィアが16隻のガレー船に1600人の兵士を載せた急仕立ての艦隊を編成し、アッコに送った。他の文献では、トスカーナやロンバルディアの農民や失業都市民を載せた20隻のガレー船団がニコラス・ティエポロに率いられて聖地に向かったという説明がなされている。ヴェネツィア元首ロレンツォ・ティエポロはジャン3世・ド・グライーらイェルサレム王国からの使節に説得され、自分の息子であるニコラス・ティエポロを派遣したのである。またアラゴン王ハイメ2世が、当時教皇やヴェネツィアと対立していたにもかかわらず、5隻のガレー船を派遣して聖地に向かうヴェネツィア艦隊に合流させた。 しかし、この寄せ集めのイタリア兵たちはほとんど統制がとれておらず、また給料も満足に支払われていなかった。アッコについた彼らはムスリムからもキリスト教徒からも見境なく略奪を行い、市の外に追い出された。ランシマンは、彼らが1290年8月にアッコ周辺で何人かのムスリム商人を襲撃し殺したと述べている が、ミショーはむしろ都市や村に対する襲撃と略奪が行われていたと述べている。この事態に対し、カラーウーンはアッコ市に対して犯罪者の引き渡しを要求した。市ではギヨーム・ド・ボジューの提案により、テンプル騎士団総長やアッコ市評議会で議論が行われたが、最終的にカラーウーンの要求を拒絶することに決まった。彼らは、ムスリムが死んだのはそのムスリムの自己責任であると主張したのである。
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