アシェンドルフ収容所
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「ヴィリー・ヘロルト」の記事における「アシェンドルフ収容所」の解説
1945年4月12日、ヘロルトらの一行はエムスラント収容所アシェンドルフ湿原支所(ドイツ語版)に到達した。 同収容所では、主にドイツ国防軍の脱走兵や政治犯が収容されていた。本来の収容人数は1,000人程度だったが、当時は敵の前進に伴い放棄された周辺の収容所からも囚人らが移送され、およそ3,000人が収容されていた。混乱の中で収容所の秩序は失われつつあり、ヘロルトらの到着2日前には、ツェレへの護送中に囚人およそ150人が脱走するという不祥事も起こっていた。ヘロルトは収容所および地元党組織の幹部らに「総統は自分に全権を与えた」と語り、野戦裁判所を設置して秩序の回復を図ると宣言した。既に事態を収拾する能力を失いつつあり、また不祥事に対する中央からの処罰を恐れていた収容所および党組織の幹部らは、総統の命令のもと活動しているというヘロルトの嘘を疑おうとしなかった。こうして、ヘロルトと敗残兵らによる収容所の支配が始まった。 敗残兵らは逮捕された脱獄囚の一団を連行すると、3人をひざまずかせて射殺し、別の8人を連れてきて長さ7m、幅2m、深さ1.80mの大きな穴を掘らせた。4月12日18時00分、30人の囚人が穴の前に並ばされた。敗残兵らは運び込んだ高射機関砲を据え付けると囚人らに向けて掃射を行い、弾づまりが起こった後、足だけが吹き飛ばされ即死しなかった者などを1人ずつ銃を使って射殺した。穴の中にも生き残りがいないか死体を蹴って確認し、さらに手榴弾が投げ込まれた。続く2つの囚人グループは機関銃によって射殺された。日没までに98人が殺害された。地元国民突撃隊部隊も出動させ、脱獄囚の捜索逮捕および処刑に当たらせた。殺すための脱獄囚が少なくなってくると、ヘロルトらは外国人や脱走兵といったその他の囚人の拷問および処刑に手を染めた。13日には74人が殺害された。 4月19日、イギリス空軍によって収容所が爆撃を受けた。この際、生き残っていた囚人のほとんどが脱走した。ヘロルトと敗残兵らは収容所を放棄し、戦争犯罪を重ねながら放浪した。4月20日にはパーペンブルクで連合国軍の到着に備えて家に白旗を掲げていた農夫を逮捕して絞首刑に処した。翌日にはレーアに到着した。一行はホテルに一泊した後、再び野戦裁判所の設置を宣言し、2人の男性を逮捕して処刑した。海軍の脱走兵1人と精神障害者1人も続けて処刑された。4月25日、レーア刑務所に収監されていたオランダ人5人の身柄を引き取り、数分間の裁判でスパイ容疑者として形式的に裁き、墓穴を掘らせた後に射殺した。彼らはヘロルトらが手にかけた最後の犠牲者だった。 連合国軍から逃れるべくヘロルトらは後退を続けていたが、アウリッヒ(英語版)に到着した時点で現地のドイツ軍司令官の命令により全員が逮捕された。5月3日、海軍軍事裁判所にてヘロルトは全ての罪を自白し、翌日には前線執行猶予処分(Frontbewährung)、すなわち執行猶予大隊への転属が決定した。しかし、ヘロルトは出頭せず姿を消し、そのまま敗戦まで潜伏していた。
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