アギロールフィング朝での黎明期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 07:49 UTC 版)
「バイエルン公国」の記事における「アギロールフィング朝での黎明期」の解説
バイエルンにおける初期国家は既に6世紀に形成されており、レヒ・エンス両川の間、フィヒテル山地およびアルプス・トリエント地域を占めていた。バイエルン初期国家が歴史上初めて言及されるのはアギロルフィング家出身のガリバルト1世(ドイツ語版)(590年頃没)の時代であり、その統治下の公国の首都はレーゲンスブルクにおかれた。フランク王国に対抗するためのランゴバルド王国との同盟は最終的には崩壊して和平を乞わざるを余儀なくされた。ガリバルト1世の後継者であるタシロ1世(ドイツ語版)(612年没)はスラヴ人とその同盟者であるアヴァールに対して初めて敵対行動をとったことで知られている。タシロ1世の後継者はフランク王国と同盟を締結して次第にその従属下におかれるようになった。ガリバルト2世(ドイツ語版)(650年没)の統治下ではフランク国王ダゴベルト1世の協力のもとで『バイエルン法典(ドイツ語版)(ラテン語: lex Bajuwariorum)』と呼ばれる最初の成文法が導入された。同じくタシロ2世(ドイツ語版)(719年没)下でもバイエルンはフランク王国の宣教師の協力の下でキリスト教が普及し始めたが、その一方でキリスト教自体は既にテオド2世(ドイツ語版)(716年死去)の時代で最終的に広まっていた。 フランク王国の宮宰カール・マルテルの婿であるオディロ(ドイツ語版)(748年没)はフランクの長上権を覆して王号を得ることを試みはしたもののカール・マルテルの息子であるカルロマンと小ピピンによって失脚せしめられた。オディロの統治下では聖ボニファティウス大司教によりバイエルンの教会はザルツブルク、パッサウ、レーゲンスブルク及びフライジンクの4つの司教区に分けられて幾つかの修道院が建てられた。 オディロの息子であるタシロ3世(ドイツ語版)(741年 - 796年)は相続権を得るためにコンピエーニュで開かれた国家会議にて小ピピンに対して忠誠を誓うことを余儀なくされた。後にフランク王国の隷属下からの離脱を試みてランゴバルド王デジデリウス(イタリア語版)とアキテーヌ公ヴァイファル(フランス語版)と共闘して反フランク同盟を結成するものの反乱は失敗に終わった。デジデリウス打倒後のカール大帝の目はその同盟者達に注がれ、迫りくる戦闘の脅威がタシロ3世をヴォルムスでの宣誓の再開及び人質を提供することを余儀なくさせた。しかし、タシロ3世は服従することを良しとせずにアヴァールと関係を結んだ。このことが788年にインゲルハイム・アム・ラインでの国家会議を呼び起こし、誓約違反者の死刑及びその全一族の修道院への幽閉(ここで一族は断絶となる)について審議された。バイエルンはフランク国家に組み込まれ、統治するために伯領と呼ばれる幾つかの地域に分割された。
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