アイヌへの布教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)
「日本のキリスト教史」の記事における「アイヌへの布教」の解説
アイヌは、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。 江戸時代の初期、蝦夷地(現在の北海道)の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、日本語使用、和人風の服装をした場合は罰則があったため、独自の宗教観を保っていたが イエズス会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、カリワーリョ神父がやってきて、大千軒岳の麓に生活し、布教を行った。 島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出し、松前藩は106名のエゾキリシタンを1639年(寛永16年)に処刑した。 ロシア人も交易を目的として上陸する一方、正教を布教したりしていた。色丹島などに住んでいたアイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている。樺太アイヌにもロシア正教会が布教を行った記録があるが、改宗者は少数であったことが報告されている。 1779年、厚岸にロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島や択捉島に住むアイヌに、キリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、キリスト教が広まらないようにした。
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