その他伝説、逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 02:57 UTC 版)
任天堂開発部長の時期には、筐体やパッケージのデザインにも携わっていた。これは、デザイン費用を軽減させるためでもあったが、印刷や筐体の発注をしていた当時の協力会社との取引を保つためでもあった。筐体のデザインは、手触りなどの使いやすさ、安全性などの他に、蒔絵の筆箱など日本の伝統工芸品も参考にしており、独自性を取り入れることを忘れなかった。横井軍平がデザインに携わったのは、初代『ゲームボーイ』から『NINTENDO64』までである。 コンピューター嫌いではあったが、初代『ゲームボーイ』や『バーチャルボーイ』の試作機を自宅に持ち帰り、自ら分解や調整、確認を行っていた。 当時の任天堂本社(京都市東山区福稲上高松町、現:京都リサーチセンター)の屋上にあるテニスコートで宮本茂と試合をしたことがある。これは、実際の経験での感覚や感じたことをソフト開発、制作にも生かしてほしいという思いからであった。試合結果は、横井の圧勝だった。 任天堂開発部長の頃に、鳥羽街道沿いにあるアパートの一階に二人で住んでいたソフト制作の社員の部屋を大掃除したこともある。 『バーチャルボーイ』開発中も自身の志との葛藤や任天堂開発部長としての苦悩をしており、一時的に不眠症にもなっていた。 横井軍平が『ゲームボーイポケット』のシルバーを持った写真は退社の当日、任天堂東京支社内で撮影されたものである。 任天堂の開発部長、株式会社コトの社長の時期ともにソフト制作会社、取引会社など、自ら現場に出向き交渉や調整を行うことも多かった(MOTHER2、ポケットモンスター 赤・緑の製作など多数)。
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