今日も今日とて
別表記:けふもけふとて
「今日も今日とて」は、毎日の習慣や日課などについて、「いつも通り・平生と変わらず・相変わらず、今日もまた同じことをする」と述べる際に用いられる、定型的な言い回し。今日も普段と同じである、普段と同じことをするのだ、という感慨を込めて用いられる。基本的には動詞(行為)を修飾する。
「とて」は名詞などに付いて「例外ではなく他と一緒である」という意味で用いられることのある表現。品詞は係助詞に区分される。たとえば「彼とて生身の人間だ」「私とて鬼ではない」「為政者とて例外ではない」といった言い方で用いられる。「今日も今日とて」も、「今日も普段毎日と同様であって特別に異なるわけではない」という意味合いと解釈できる。
【例】
大正の文人・山村暮鳥の童話集「ちるちる・みちる」の中には、次のようなくだりがある。 「豆粒」たちは、毎日のように仲良くおしゃべりしていたのである。そして今日も、いつもと同じく、仲良くおしゃべりしていたのである。
「今日も今日とて」の元ネタ
「今日も今日とて」の直接の「元ネタ」は見出し難い。「今日も今日とて」という表現は、特定の誰かが編み出した独創的な表現、とは考えにくい。むしろ、定型的な日本語の言い回しとして自然発生的に定着した表現と考えた方が自然である。その意味で、直接の「元ネタ」はない、と言い得る。
巷に流布している「徒然草や土佐日記にも登場している古い表現」という言説は、助詞「とて」について言及しているものである。徒然草にも土佐日記にも、「今日も今日とて(けふもけふとて)」という記述はない。
「今日も今日とて」は明治文学の中では多く見いだせる。そのため遅くとも明治の文壇では一種の定型的言い回しとして定着していたと考えられる。それ以前の使用例はなかなか見出し難い。とはいえ、さらに古い用例がある可能性を否定するものではない。
- 「今日も今日とて鐵五郎様が~」(幸田露伴「五重塔」)
- 「お山の猿はおどけもの、今日も今日とて店へ來て」(薄田泣菫「猿の喰逃げ」)
- 「けふもけふとて 砂つぽこりの中で搖れてゐる」(山村暮鳥「遙にこの大都會を感ずる」)
- 「けふもけふとて紅つけてとんぼがへりをする男」(北原白秋「黄色い春」)
- 「けふもけふとて氣まぐれな 晝の日なかにわが涙」(北原白秋「歌ひ時計」)
- 「犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。」(林不忘「丹下左膳」)
- 「きょうもきょうとて浅草の、この春死しんだ志道軒の小屋前で」(邦枝完二「おせん」)
- 「きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく」(邦枝完二「江戸名人伝 歌麿懺悔」)
- 「きょうもきょうとて鶉坂の老先生の庭で」(吉川英治「牢獄の花嫁」)
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