『出兵史』に対する原暉之の疑念
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「尼港事件」の記事における「『出兵史』に対する原暉之の疑念」の解説
パルチザンによる日本居留民の虐殺について、『西伯利出兵史要』は、次のように述べている。「敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。屈強の男だけというならまだしもの事、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとの事で、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである」 これに対して原暉之は、「たしかに三月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたり殺されたりしたことは否定できない」としながら、全体としては、軍隊と行動をともにしての戦死と敗戦の過程での集団自決が多かったのではないか、と憶測する。原が、その根拠としているのは、主に以下の三点である。まず、現地入りした外務省の花岡止朗書記官の、6月22日付け内田外相宛報告に、「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と書かれていること。次に、救援隊の多門大佐が、ニコラエフスクを脱出してサハリンに現れたアメリカ人毛皮商人から、「脱出するとき、知り合いの日本人を誘ったが断られた。日本人はみな一団となって日本軍とともに抵抗する決心をして、知り合いの日本人も島田商店に立てこもった。憲兵隊の宿営も全焼したが、居留民も兵士と共に火中に身を投じた」というような話を聞き、5月6日付で参謀本部に報告していること。最後は、領事館の二人の海軍大佐が自決したともいわれ、また石田領事が妻子を道連れに自決したのではないかと推測されること、である。 原暉之が理解を見せるソ連側言い分の基本には、日本軍決起の要因と同じく、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ連名の宣伝電文がある。「日本軍の主力部隊は、日本領事館、兵舎、守衛隊本部に集結された。さらに、本隊から切り離されてしまった兵士達は、日本人が居住していた全ての家屋で籠城した。日本人居留民の全員が武装し、攻撃に参加していた」と、彼らは各地に打電していたのである。 トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、仲間割れによって処刑されるが、そのときの人民裁判の罪状に、日本人居留民の虐殺は含まれていない。
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