「荒野」の戦いからアポマトックス方面作戦
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「ジェイムズ・ロングストリート」の記事における「「荒野」の戦いからアポマトックス方面作戦」の解説
ロングストリートは、古い友人のユリシーズ・グラントが北軍の総司令官になったことを知って、仲間の士官に「彼は毎日、毎時間、戦争が終わるまで戦ってくるだろう」と告げた。リー軍に戻って最初の戦い、1864年5月の荒野の戦いでは、ロングストリートが南軍を敗北から救った。北軍の第2軍団に対しオレンジ・プランク道路から力強い側面攻撃を行い、敵をほとんど戦場から追い出すところまでいった。ここで再度難しい地形を扱う独創的な戦術を見付けた。6個旅団に対し厚い散兵線で前進を命じ、兵士達には絶え間なく銃撃を行うことを可能にさせ、敵からは自分達を捉えどころのないようにさせた。「荒野」に関する歴史家エドワード・スティアはこの時の作戦成功の要因を「勢力的な劣勢をはね返す以上にロングストリートの戦術的天才を示したこと」にあるとした。 ロングストリートはこの攻撃の最中に部下の不慮の射撃によって負傷した。その場所は1年前にジャクソンが致命傷を負った場所からほんの4マイル (6 km)しか離れていなかった。弾は肩を貫通し、神経を切断し、喉に深い切り傷を付けた。ロングストリートの指揮が無くなって攻撃の勢いが途切れ、リー将軍は部隊が再編成されるまで次の行動を止めた。これで北軍守備隊には組織を建て直す暇を与え、次の攻撃は失敗に終わった。E.P.アレクサンダーはロングストリートが居なくなったことが、戦闘の重要な分かれ目だったと指摘した。「私は常に、ロングストリートが倒れなければ、ハンコックの第2軍団に拡がっていた恐慌がさらに大きくなり、グラント軍はラピダン川を越えて退却するしか無かったと信じている。」 ロングストリートは1864年の春と夏の作戦に参加できなかった。リーは敵を扱う彼の手腕がないことを酷く残念に思った。ロングストリートはバージニア州リンチバーグで治療を受けており、生まれ故郷のジョージアで静養していた。1864年10月に復帰したが、右腕は麻痺してつり包帯をしており、最初は馬にも乗れなかった。ピータースバーグの包囲戦での残り期間、首都リッチモンドの前線で、ジェイムズ川の北の部隊とバミューダ・ハンドレッドにいるピケットの師団を含み守備隊を指揮した。リーに従ってアポマトックスに後退し、1865年4月2日にA.P.ヒルが戦死した後は第1軍団に加えて第3軍団も指揮した。リーが降伏を考慮している時に、ロングストリートはグランドが公正に扱ってくれると信じていることを告げた。リーが4月9日にアポマトックス・コートハウスに馬で向かう時、「将軍、もし彼が良い条件を出さなければ、戻ってきて我々とともに戦いましょう」と言った。
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